変法運動(1895-1898)
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「梁啓超」の記事における「変法運動(1895-1898)」の解説
1895年、科挙の会試を受験するために北京を訪れていた康有為・梁啓超は、この年の日清戦争の敗北による下関条約の内容を知って憤慨する。二人は、同じく北京を訪れていた広東・湖南の挙人ら1200人余りを糾合して講和拒否運動を呼びかけ、康有為を代表とする上書を三度行う(公車上書)。同時に、康有為・梁啓超は政治団体として強学会を結成する。強学会は政府の圧力を受け、すぐに解散してしまうが、このときの会員が「変法派」として変法自強運動の担い手になる。 1896年、変法派の黄遵憲に招かれ、上海で旬刊誌『時務報(中国語版)』の主筆になる。このとき、寄稿文「変法通議」などを通じて、前近代的な科挙を改めて学校制度を起こすことを説くも、やがて発行禁止となる。翌年の秋には、譚嗣同・黄遵憲・熊希齢らが湖南の長沙に設立した時務学堂の主講となる。このとき、学生に民権論を説くも、反体制的な人物として知れ渡り、王先謙ら保守的知識人によって弾圧されることになる。 1898年、変法派の主張を容れた光緒帝に招かれ、梁啓超たちは北京で立憲君主制としての革命(上からの改革)に携わる。光緒24年旧暦4月23日(1898年6月11日)、光緒は「明定国是詔」を発布し、改革の決意を表明し、変法はこれから始まる。光緒帝は梁啓超らを召還した。法を変えて5日後に、光緒は康有為を呼び寄せて、つまり梁啓超に『八股をやめてください』を起草させ、八股を使って改造して論説を試みる。守旧派の官吏の剛毅と八股の士子達に反対されて、梁啓超を暗殺しようとした。旧暦5月15日(1898年7月3日)、翁同龢等の推薦のもと、光緒は梁啓超を召し出す。当時の例によれば、四品以上の京官は皇帝に謁見することができ、梁啓超は一介の布衣で皇帝に謁見するのは清朝の開国以来前例のないことである。召見の際には、梁啓超は北京語を解さなかった為、皇帝も彼の新方言も理解しなかった。全腹経綸、喉に魚の骨が刺さったように、情急に「変法通議」を提出して、六品だけを授与して、皇帝の重用を得ていないで、勅其は京師大学堂翻訳書局の事務を取り扱う。 法を変える措置の策略の上で、康有為は日本の明治維新の経験によって主張して順序を追って漸進する。しかし、譚嗣同や梁啓超らは、温和主義に強く反発し、中国の「積弊疲れ遊戯」に対し、雷万鈞の手段で局面を打破すると主張した。変法のすみやかな成功を求めて、十分な計画と策略が不足し、混乱が生じた。旧暦七月十三日、康有為は制度局を宮の中で演奏してもらって、総理の役所と軍機大臣の権力に取って代わるつもりで、朝野上下はきわめて恐れて、死ぬことを誓った。十六日、礼部主事の王照は光緒に日本諸国を遊歴してもらい、各国の状況を視察した。礼部はタルブを懐にして、代わりに贈りたくないと承諾しました。光緒は十九日にタルブ・許応騤・堃岫・徐会灃・溥頲・曾広漢などの変法を妨げる六堂官を懐して懲戒し、清朝の開国以来前例のないことで、西太后に処分が重すぎると認めさせ、光緒のやり方に反対した。翌日、光緒は楊鋭・劉光第・林旭・譚嗣同を抜擢して共に四品卿となり、軍機章京を歩いた。七月二十八日、光緒は軍機処の代わり懋勤殿を開き、梁啓超・李端棻などを呼んで新政を協議するつもりであった。同日、光緒は頤和園に行き、西太后の批准を求めて差し押さえられた。翌日、密詔康有為は速やかに救出の策を講じる。八月の初め、光緒は新陸軍の直隷を率いて袁世凱を推察し、郎候補を賞し、抱き込みを図った。翌日、光緒はまた密詔を下して、康有為は北京を離れて上海の官報局に赴くよう命じた。翌朝、密詔を受け取った康為は梁啓超・譚嗣同達を集めて対策を協議する。譚嗣同は武装で権力を奪う方法を提案して、袁世凱に兵を挙げて勤王を挙げさせ、栄禄を殺して、慈禧を軟禁した。しかし、事態は一転、西太后・袁世凱ら保守派がクーデターを起こし、変法派は弾圧・処刑される(戊戌の政変、百日維新)。
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