変法派への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:34 UTC 版)
貧しい家庭に生まれたが、呉敬恒は苦学の末に22歳で秀才となった。1891年(光緒17年)に郷試で合格したが、その後会試を2度受験して2度とも落第している。1897年(光緒23年)に北洋大学堂にて漢文教習(教師)となった後、呉は変法思想に傾倒し、康有為の「公車上書」に署名を列ねた。1899年(光緒25年)、南洋公学学長となり、さらに群智会と呼ばれる団体を結成して蔡元培と友人となっている。 1901年(光緒27年)春、呉敬恒は自費で日本に留学し、宏文学院で学ぶ。翌年、成城学校入学を望む留学生のために、呉は駐日公使館前での座り込みデモに参加した。しかし駐日公使蔡鈞により強制排除され、呉は悲憤の余り自殺を図ったが、日本の警察により救護されている。その後まもなく帰国した。帰国後、呉は蔡元培・章炳麟(章太炎)らと上海で愛国学社を組織し、呉が学監となった。その後、反清の言論活動を展開したが、1903年(光緒29年)に指名手配を受け、香港に逃亡している。
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