変法派としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 06:46 UTC 版)
初めは塾教師であった。1898年(光緒24年)、湖南巡撫陳宝箴が創設した時務学堂に学ぶ。当時、梁啓超が総教習であり、その門下生として范源濂は新学に親しみ、変法思想を抱くことになる。戊戌の政変後、范も官憲に追われることとなる。唐才常とともに上海へ逃れ、南洋公学で学んだ。 1900年(光緒26年)、梁啓超らが横浜で開いた大同学校に、蔡鍔らとともに入学した。後に、東京高等師範学校に進学している。同年秋、唐の決起計画に加わるため、長沙に一時戻った。しかし、事が漏れて唐が逮捕されたため、再び日本に戻り、法政大学で学んだ。この時分に法政大学の総理であった梅謙次郎に懇請し、法政大学に清国留学生のための法政速成科を設置させた。 1904年(光緒30年)、范源濂は帰国し、留学事業に携わった。その翌年からは清朝が創設した学部で各職を歴任し、学制の整備など様々な教育事業の事務に取り組んでいる。
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