陳宝箴とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 陳宝箴の意味・解説 

陳宝箴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 04:23 UTC 版)

陳 宝箴(ちん ほうしん、Chen Baozhen1831年 - 1900年)は、末の変法派の官僚。字は右銘

江西省南昌府義寧州(現在の江西省九江市修水県)出身。1851年挙人となった。団練を率いて太平天国軍と戦い、義寧州城の回復に功があったため、知県候補に挙げられた。1862年安慶曽国藩と面会し、「海内奇士」と賞された。洋務運動時期には、曽国藩のもとで軍備強化に尽力した。1895年、湖南巡撫に就任。当時、湖南省では黄遵憲・江標・徐仁鋳・欧陽中鵠・熊希齢・梁啓超・唐才常譚嗣同皮錫瑞、子の陳三立などが変法派として活動していた。彼自身も変法派に積極的にかかわり、湖南省の各州県に『湘学報』を定期購読するように命じた。1897年には長沙に時務学堂が建設されるのを援助し、1898年2月には南学会で講演を行っている。こうして湖南省は変法派の重要な拠点となった。そのため守旧派から攻撃され、楊深秀の弁護で事なきを得たこともあった。陳宝箴は「湖南の開化を己の任務としていた」(梁啓超)のである。しかし戊戌の政変がおきると、陳宝箴は劉光第楊鋭を推薦したことで「奸邪を招引した」として罷免された。江西省南昌府に引退し、1900年南京に転居したがその年に死去した。

子は詩人の陳三立、孫は画家の陳衡恪と歴史学者の陳寅恪である。

先代
徳寿(デシェウ)
湖南巡撫
1895-1898
次代
兪廉三



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陳宝箴」の関連用語

陳宝箴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陳宝箴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陳宝箴 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS