湖南の戊戌変法
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1898年(光緒24年)、戊戌変法が開始された。これは康有為・梁啓超が中心となって起こした富国強兵を目指す改革運動である。洋務運動が兵器や工場機械の導入に制限して西欧文明を受容しようとした改革であるのに対し、政治や外交などの制度まで含めた全般的な改革をめざしたものである。この改革は康有為が光緒帝を擁し、北京で指揮を執っていた。黄遵憲は外交官としての経験から、富国強兵のためには全面的な制度改革が不可欠と考え、この戊戌変法を強く支持していたのである。 戊戌変法の少し前、翁同龢に推薦されて黄遵憲は光緒帝に謁見し変法を説く機会を得た。『日本国志』に光緒帝は大きく心動かされたという。結果、皇帝から信任されたため湖南省の長宝塩法道という官職に就き、さらにその後按察使を兼任した。按察使は司法・治安を司り、省内では総督・巡撫・布政使に次ぐ重職であって、進士でもない黄遵憲がこの職につけられたことから、いかに信任篤かったかが分かる。この湖南への派遣は偶然に拠るものではない。当時湖南は総督張之洞、巡撫陳宝箴(ちんほうしん、詩人陳三立の父であり、著名な史家陳寅恪(ちんいんかく)の祖父)、学政の江標(こうひょう)及び徐仁鋳(じょじんちゅう)など改革を志向する官僚が集っていた。光緒帝や翁同龢は湖南を改革のモデル地区とする意図があって、黄遵憲を派遣したのである。 期待に応えるかのように黄遵憲は変法派官僚と結び湖南において、強力に改革を推進していく。それは「西人の政・西人の学を采り、以て我が国の政・学の弊を彌縫す」というように、西欧を改革モデルとするもので、且つ日本を手本としたものであった。当時まだ国外の土を踏んだことがある者はまれであり、ましてや官僚・郷紳といった知識人層に限定すれば、尚更少数であった。したがって黄遵憲のように直接見聞した者の意見が、西欧・日本をモデルとする改革において尊重されたことは容易に想像できる。 改革はまず『時務報』の経営・あり方をめぐって内紛に巻き込まれていた梁啓超を上海から呼び寄せ、時務学堂という改革思想を教授する学校の総教習とすることから着手された。梁啓超ばかりでなく、同じく康有為ら変法派に連なる譚嗣同(たんしどう)・唐才常(とうさいじょう)も同時に教師に任じている。時務学堂は王先謙(おうせんけん)の要望を陳宝箴が入れて設立した学校である。「時務」ということばが冠せられているように、通常の科挙受験あるいは講学タイプではなく、洋務運動の精神「中体西用」を指針とする教育機関として構想された。しかし変法派の教師たちは民権・平等・立憲政治といった西欧的価値観を学生に教え、湖南に一大旋風を巻き起こした。これは王先謙の思惑を超えたものであって、その過激思想を厳しく批判した。結果、湖南の改革に強く反対する一派を生み出すことになり、改革の進行を阻害することになる。 さらに黄遵憲は『湘報』・『湘学新報』という雑誌新聞を発行し、変法が避けられないことを世に知らしめようとした。これらの鼓吹により変法派の勢いが強くなり、黄遵憲が湖南に来て以来「我が省の民心、頓(とみ)に一変を為す」と保守派をして言わしめたのである。この他不纏足会を組織し、女性に強制されていた纏足の廃止を訴えている。 黄遵憲の行おうとした改革の眼目の一つに地方自治の導入がある。上の時務学堂が少壮の学生たちを対象とした啓蒙を目的としたのに対し、士大夫を対象としたのが南学会である。南学会は学会の体裁をとるものの、実際には湖南の指導的な士大夫層を集めて立憲政治の仕組みを理解させ、ゆくゆくは湖南の地方議会たらしめようと企図された団体である。また治安を担当する機関として保衛局を設けた。これは西欧や日本を範としながら、独自の改良を加えた官民合弁の警察制度である。さらに実務に長けた官吏を育成するために課吏館を設けた。ただこれらの改革が実効を挙げたかどうかは疑わしい。戊戌変法は別名百日維新と言われ、下に見るようにごく短期間で終結するからである。
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