湖北督軍となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/07 07:59 UTC 版)
1921年(民国10年)7月、湖北督軍王占元に対し、「鄂人治鄂」のスローガンを唱える湖北省各層の反感が強まる。それを見た蕭耀南は、王からその地位を奪おうと画策しはじめた。そして、湖南督軍趙恒惕に攻撃された王を、蕭は故意に見捨て、王を下野に追い込んだ。同年8月、蕭は湖北督軍兼両湖巡閲使に任命された。1922年(民国11年)4月の第1次奉直戦争でも、蕭は南方に対する備えを固め、呉佩孚の後顧の憂いを断った。 1923年(民国12年)2月7日、京漢鉄路総工会の大規模デモ鎮圧(「二・七惨案」)に際して、蕭耀南も、呉佩孚の命に従い武力鎮圧に深く関与した。さらに同年10月の曹錕の総統選挙でも、蕭は、その選出のために各種工作に尽力した。なお曹は、賄賂を用いて総統選出を図ったため、それを嫌う呉との間で対立が発生したが、蕭が調停して両者を取り持っている。曹の総統選出後、蕭は引き続き両湖巡閲使をつとめ、さらに上将軍・勲一位を授与された。1924年(民国13年)2月には、湖北省長も兼任している。
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