湖北省政府主席としての挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 14:45 UTC 版)
「夏斗寅」の記事における「湖北省政府主席としての挫折」の解説
1931年(民国20年)12月、夏斗寅は中国国民党第4期中央委員に選出された(以後、第5期・第6期でも同様)。翌年3月、湖北省政府主席に任ぜられ、国民革命軍の各職からは退いた。ところが、夏が政務のための補佐機関として「省政設計委員会」という組織を創設しようとしたところ、蔣介石から法的根拠を咎められてしまう。このときの紛糾が原因で、夏は1933年(民国22年)7月にわずか1年4か月の在任期間で省政府主席を辞任してしまった。 夏斗寅は1935年(民国22年)に軍事委員会委員長武漢行営総参議に任ぜられる。1937年(民国26年)7月、川康軍事整理委員会委員に選出された。しかし日中戦争(抗日戦争)勃発と共に引退し、成都に隠居している。戦後に湖北省に戻り、1948年(民国37年)に立法院立法委員に任ぜられた。1949年(民国38年)5月、中国人民解放軍により武漢が攻略されると、夏は香港に逃亡し、占星で生計を立てている。1951年6月23日、香港にて病没。享年67(満65歳)。
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