湖北省から河南省へ
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当初は1899年(清光緒25年)より上海方言館で旧学を学んでいたが、1906年頭、19歳の時に四川省へ赴いて成都の陸軍速成学校に騎兵科学生として入学し、高級班に進級した。卒業後は四川新軍第33混成協(協統:朱慶瀾)附見習軍官。1911年(宣統3年)2月、第33混成協が第17鎮に再編された時には隊官に昇進していたが、間もなく四川督練公署に異動し、科員、科長。武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、帰郷して黎元洪率いる革命派の湖北軍に加わり、第4騎兵旅営附。 1913年(民国2年)、陸軍大学第4期正則班に入学し、1916年(民国5年)12月に卒業すると湖北省に戻り、安徽派側の王占元率いる鄂軍(湖北軍)に属している。1918年(民国7年)4月24日、陸軍第18師歩兵第35旅(旅長:南元超)少校副官。しかし1920年(民国9年)、南元超は王占元に暗殺される。翌年の湘鄂戦争後、蒲圻鎮守使、通城鎮守使を歴任する寇英傑の配下として営長、団長など順調に昇進し、寇が第1師師長となると1924年10月に隷下の第1旅旅長。 1926年(民国15年)1月20日、直隷派の呉佩孚の命により靳雲鶚の第1軍、劉鎮華の陝甘軍とともに国民軍第2軍の岳維峻の支配下にあった河南攻略に派遣され(鄂豫戦争)、1月26日、賈万興の第2旅、蕭耀南の部下であった孫建業ら鄂軍3個旅とともに寇英傑の討豫鄂軍に組み込まれ入省。29日、まず南東部の信陽を東、西、南の3方向からそれぞれ攻める事となり、賀の部隊は東門攻略を担当することとなった。信陽を防備する蒋士傑率いる第11師は屈強で、討豫鄂軍は苦戦を強いられた。29日、賀は東門を突撃したが、反撃にあい敗退した。寇は信陽攻略にこだわり続けたため、2月10日、呉佩孚は劉玉春(中国語版)の2個旅を監視役として充て、確山への北進を命じた。河南省制圧後、陸軍第15軍軍長、また靳雲鶚が制圧した開封警備司令を兼任。
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