湖北統治の失敗、その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 14:36 UTC 版)
しかし、王占元の湖北統治は苛酷で、省内の各階層から不評であった。また、部下の兵士たちも給料遅配等から繰り返し反乱を起こし、湖北社会を混乱に陥れている。その結果、1921年(民国10年)6月、湘軍(湖南軍)の趙恒惕と連合した湖北省有力者の蒋作賓や孔庚(中国語版)、李書城らが、倒王運動を開始した(湘鄂戦争)。8月5日、通城を奪われた王は曹錕と呉佩孚に救援を求めた。しかし、曹らは王を見捨て(援鄂不援王)、河南省駐屯の蕭耀南の第25師および靳雲鶚の第8混成旅を湖北省に介入。抵抗し得なかった王は、翌日下野を表明して天津に逃亡した。 これ以降も、王占元は直隷派の一員として活動を続けた。しかし、湖北統治の失敗により軍事的・政治的力量は大きく損なわれ、国政への影響は限定的なものでしかなかった。1926年(民国15年)9月、五省聯軍司令孫伝芳の檄に応じ、王は訓練総監に任命され、中国国民党の北伐を阻止しようとする。また、1928年(民国17年)4月、王は張作霖から陸軍検閲使に任命された。しかし、それからまもなく、北京政府は北伐軍により倒されてしまった。 国民政府時代になると、王占元は実業界に転進した。王は、それまで貯蓄していた莫大な資産を不動産、各種工場、銀号(銀行)などに投資して、大きな利益を上げている。1934年(民国23年)9月14日、天津にて死去。享年74(満73歳)。
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