直隷派の一員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 02:24 UTC 版)
袁世凱死後の1916年(民国5年)6月、大名鎮守使に異動し、以後は直隷派の一員となる。1918年(民国7年)2月、幇弁直隷軍務に、翌年5月、歩兵統領兼陸軍第13師師長に任命される。1920年(民国9年)7月の安直戦争では、京畿衛戍司令をつとめ、1922年(民国11年)4月の第1次奉直戦争でも奉天派の背後を脅かして直隷派の勝利に貢献した。これにより同年5月、熱河都統に任命されたが、王は引き続き京畿衛戍司令をつとめる(そのため、同省幇弁の米振標が都統を代理した)。 1924年(民国13年)の第2次奉直戦争では、王懐慶は討逆軍第2軍総司令や西北辺防督弁を呉佩孚から委ねられた。しかし、王は奉天派の軍に敗北し、下野に追い込まれた。1926年(民国15年)4月、呉が復権して奉天派の張作霖と合作したため、王も北京警衛司令(衛戍司令の改組)に返り咲いた。しかし、やはり奉天派から圧迫され、同年11月に辞任に追い込まれた。 以後、軍政から引退した王懐慶は、天津に寓居する。日中戦争(抗日戦争)時に日本軍が華北を支配した際には、王は京漢路治安軍総司令に任命された。しかし王は、実際にはこの任命に応じていない。1953年、天津で病没。享年78。
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