直隷派としての活動
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中華民国成立後、第3鎮は第3師に改組され、引き続き曹錕が師長、蕭耀南が参謀長をつとめた。1913年(民国2年)、蕭は第9団団長に任命された。さらに河南省で白朗討伐に貢献したことから、陸軍少将銜を授与される。1914年(民国3年)、曹が長江上遊警備司令に任命され、岳州(現在の湖南省岳陽市)に駐屯すると、蕭は引き続き司令部参謀長をつとめた。 1915年(民国4年)12月、護国戦争(第三革命)が勃発すると、曹錕・蕭耀南らは護国軍討伐のために四川省入りし、護国軍と交戦した。その後、蕭は衛隊統領に任命されている。1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去すると、曹は直隷督軍に異動して3個混成旅を率いる。蕭は、その下で第3混成旅旅長に任命された。 1917年(民国6年)、段祺瑞・曹錕の命令により、蕭耀南は呉佩孚に属して南方政府と戦うために湖南省に進軍した。しかし、1916年(民国7年)6月、呉・蕭らは南方政府との戦いを拒否して、連名で電報を打ち、南北和平を唱えた。1920年(民国9年)7月の安直戦争でも、蕭は引き続き呉の指揮下で安徽派と戦い、直隷派の勝利に貢献した。これにより、蕭は第25師師長に昇進した。鄭州に駐屯し、陸軍中将銜を授与されている。
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直隷派としての活動
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1902年(光緒28年)、武昌右旗馬隊営に入隊する。その後、湖北陸軍特別小学堂に入学し、1907年(光緒33年)には北京陸軍軍官学堂(後の北洋陸軍大学)第2期に進学した。1909年(宣統元年)に卒業すると、禁衛軍騎兵排長(小隊長に相当)に任ぜられる。まもなく第6鎮第11協統領となった李純の下で方本仁は参謀長代理に任ぜられた。 中華民国建国後の1913年(民国元年)に李純が江西都督に任ぜられると、方本仁はその下で都督府参議庁庁長、陸軍将校講習所所長、督軍署参謀長などを歴任する。1917年(民国6年)、贛西鎮守使に任命される。1922年(民国11年)、新たに江西督軍となった蔡成勲の下で、方は贛南鎮守使兼粤贛辺防督弁兼援粤軍総司令に任命された。1923年(民国12年)3月、粋威将軍の位を授かる。 1924年(民国13年)12月、蔡成勲が広州の中国国民党討伐に失敗すると、方本仁はこの機を捉えて兵変により蔡を下野に追い込んだ。こうして方は北京政府中央から暫署江西督弁に任命され、翌1925年(民国14年)1月、正式に江西督弁に任命されている。同年11月、孫伝芳の下で五省聯軍贛軍(江西軍)総司令に任命された。しかし1926年(民国15年)3月、呉佩孚に支援された方配下の師長鄧如琢らが兵変を起こし、方は下野に追い込まれてしまう。
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