直隷新政への貢献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 00:28 UTC 版)
1880年(光緒6年)、16歳で秀才となる。1893年(光緒19年)、順天の郷試に参加して挙人となった。しかし、その後は科挙で好成績を収められなかったため、実務で功績を立てる方向に転換した。1898年(光緒24年)、開平鉱務局総弁となり、新式の鉱工業事業への関与を開始する。1901年(光緒27年)、山東巡撫袁世凱の幕僚となり、山東大学堂総弁に任ぜられた。 翌年、周馥は山東巡撫となった。しかし周学熙は直隷総督に昇格した袁に引き続き随従している。7月、直隷省銀元局総弁に任ぜられた。このときに、銀元の発行で好成績をあげたため、袁から賞賛されている。1903年(光緒29年)4月、日本へ商工業・造幣のための視察に赴いた。 帰国後は、袁に進言し、直隷省工芸局の創設を進言した。このほか、天津高等工業学堂、実習工場、考工廠、教育品製造所など様々な実業機関の創設・運営を主導し、袁による直隷省での新政を大いに支援している。企業の振興にも熱心で、1906年(光緒32年)に灤州煤鉱と啓新洋灰股份有限公司を設立し、これらは中華民国成立後も勢いを保った。
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