直隷派との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:35 UTC 版)
段祺瑞の対独宣戦は、当然ながら日本からの借款を実施するための理由付けであった。上述のとおり西原亀三との交渉を進めるため、すでに1916年末から曹汝霖・陸宗輿・章宗祥といった旧交通系幹部を日本に派遣している。この交渉の結果、1918年に段祺瑞は日本円にして約1億4500万円の借款を取得することができた。いわゆる西原借款である。この借款を梃子にして、段は御用会派たる安福倶楽部、軍事力としての「参戦軍」を組織している。 1917年9月には、孫文(孫中山)らが広州で護法軍政府を組織し、護法運動を開始した。段祺瑞は、護法派の湖南督軍譚延闓を罷免、更に自らの腹心である傅良佐を後任に任命することで挑発を仕掛ける。目論見通り譚は反抗したため、これを口実として段は武力による「南北統一」を開始、緒戦は優位に戦いを進めた。しかし馮国璋を筆頭とする直隷派は、段の独断専行的な態度への不満や英米の支援もあって、「和平統一」を唱えて反発を示し始める。この時、護法軍討伐の前線にあった湘南軍正副司令は直隷派の王汝賢・范国璋であり、馮は密かに指示してこの2人を撤兵させてしまう。取り残された傅は陸栄廷率いる旧広西派に敗退、この責任を取る形で、段は11月16日に国務総理兼陸軍総長の辞任に追い込まれた。 一時劣勢となった段祺瑞だったが、腹心の徐樹錚が謀略を巡らすことで馮国璋への反撃を開始する。徐はまず直隷派の中で段と比較的親しかった曹錕を調略し、段支持へと転向させた。これで直隷派内の団結にヒビを入れると、安徽督軍倪嗣沖ら安徽派督軍たちが反馮活動を活発化させ、1918年(民国7年)2月には、やはり徐の画策により段は東三省の張作霖を関内に迎え入れている。この結果、馮国璋は和平統一を撤回して護法軍政府への軍事行動の継続に追い込まれ、3月に段は国務総理へと復帰している。
※この「直隷派との抗争」の解説は、「段祺瑞」の解説の一部です。
「直隷派との抗争」を含む「段祺瑞」の記事については、「段祺瑞」の概要を参照ください。
- 直隷派との抗争のページへのリンク