直隷派から国民革命軍へとは? わかりやすく解説

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直隷派から国民革命軍へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 03:20 UTC 版)

賀国光」の記事における「直隷派から国民革命軍へ」の解説

1926年民国15年)秋、国民革命軍武漢まで進軍してくると、呉佩孚河南省逃れてきた。靳雲鶚と呉は馮玉祥張作霖のどちらと手を組むかで対立するようになり、更に靳が給料遅滞マスコミ告発する25日、呉は靳の「再解任」を通達後任に寇を立てることを告げた。寇や田維勤の第20師に部隊接収命じたが、憤慨した靳は、隷下部隊に呉との決別表明呉靳内訌)。賀国光第15軍は寇の討赤聯軍第3軍団隷下組み込まれ、靳と交戦。しかしまた呉佩孚周辺でも和議求める声が多数上がり21日両軍停戦疲弊した寇は25日辞任申し出ると、2月7日河南省出て奉天派投降した長年の上官を失った賀は河南省とどまった。 その翌日2月8日安国軍(中国語版大元帥張作霖呉佩孚武漢奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出宣言韓麟春張学良率い第3、4方面軍、および張宗昌率いる直聯軍が迫りつつあった。10日呉佩孚鄭州にて緊急軍事会議開き張作霖と戦うか否か議論していた。賀国光らは奉天派との連携主張し、王為蔚ら徹底抗戦派と対立会議紛糾していた。そんな中靳雲鶚は高汝の第14師を鄭州派遣し、張と戦うよう呉に迫った。呉は奉天派との対決決意し全軍指揮権任され靳雲鶚河南保衛軍を組織した。 しかし、安国軍に包囲され進退窮まった賀は、靳とともに易幟行い唐生智らの国民革命軍転じた。これにより、新編第4軍軍長に任ぜられている。1927年民国16年)秋、国民政府軍委員会陸軍処処長兼武漢衛戍副司令に任ぜられた。まもなく南京転任し軍事委員会高級参謀に任ぜられ、1928年民国17年8月には、軍事委員会弁公庁主任となっている。同年11月国民政府訓練総監部歩兵監に任ぜられた。以後建設委員会委員国軍編遣委員会遣置局局長国民革命軍総司令部参謀長武漢行営参謀長兼第1縦隊司令湖北省政府委員などを歴任している。 1929年民国18年)冬、第1路軍総指揮参謀長に任ぜられる。翌年中原大戦では、命令伝達所長兼任し12月南昌行営参謀長作戦庁長転じた1931年民国20年12月訓練総監部副監兼首都警備副司令となる。翌1932年民国21年4月軍事委員第3庁副庁長兼贛粤閩湘四省剿匪総部参謀長に任ぜられ、紅軍討伐従事した1934年民国23年2月軍事委員会第2庁副庁長転じる

※この「直隷派から国民革命軍へ」の解説は、「賀国光」の解説の一部です。
「直隷派から国民革命軍へ」を含む「賀国光」の記事については、「賀国光」の概要を参照ください。

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