直隷派から国民革命軍へ
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1926年(民国15年)秋、国民革命軍が武漢まで進軍してくると、呉佩孚も河南省に逃れてきた。靳雲鶚と呉は馮玉祥と張作霖のどちらと手を組むかで対立するようになり、更に靳が給料の遅滞をマスコミに告発すると25日、呉は靳の「再解任」を通達、後任に寇を立てることを告げた。寇や田維勤の第20師に部隊の接収を命じたが、憤慨した靳は、隷下部隊に呉との決別を表明(呉靳内訌)。賀国光の第15軍は寇の討赤聯軍第3軍団隷下に組み込まれ、靳と交戦。しかしまた呉佩孚の周辺でも和議を求める声が多数上がり、21日、両軍は停戦。疲弊した寇は25日に辞任を申し出ると、2月7日に河南省を出て奉天派に投降した。長年の上官を失った賀は河南省にとどまった。 その翌日の2月8日、安国軍(中国語版)大元帥・張作霖は呉佩孚が武漢を奪還できないことにしびれを切らし、「援呉」を名目として河南省進出を宣言、韓麟春・張学良率いる第3、4方面軍、および張宗昌率いる直魯聯軍が迫りつつあった。10日、呉佩孚は鄭州にて緊急軍事会議を開き、張作霖と戦うか否かを議論していた。賀国光らは奉天派との連携を主張し、王為蔚ら徹底抗戦派と対立、会議は紛糾していた。そんな中、靳雲鶚は高汝桐の第14師を鄭州に派遣し、張と戦うよう呉に迫った。呉は奉天派との対決を決意し、全軍指揮権を任された靳雲鶚は河南保衛軍を組織した。 しかし、安国軍に包囲され進退窮まった賀は、靳とともに易幟を行い、唐生智らの国民革命軍に転じた。これにより、新編第4軍軍長に任ぜられている。1927年(民国16年)秋、国民政府軍事委員会陸軍処処長兼武漢衛戍副司令に任ぜられた。まもなく南京に転任し、軍事委員会高級参謀に任ぜられ、1928年(民国17年)8月には、軍事委員会弁公庁主任となっている。同年11月、国民政府訓練総監部歩兵監に任ぜられた。以後、建設委員会委員、国軍編遣委員会遣置局局長、国民革命軍総司令部参謀長、武漢行営参謀長兼第1縦隊司令、湖北省政府委員などを歴任している。 1929年(民国18年)冬、第1路軍総指揮部参謀長に任ぜられる。翌年の中原大戦では、命令伝達所長を兼任し、12月、南昌行営参謀長兼作戦庁庁長に転じた。1931年(民国20年)12月、訓練総監部副監兼首都警備副司令となる。翌1932年(民国21年)4月、軍事委員会第3庁副庁長兼贛粤閩湘四省剿匪総部参謀長に任ぜられ、紅軍討伐に従事した。1934年(民国23年)2月、軍事委員会第2庁副庁長に転じる。
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