呉靳内訌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 16:28 UTC 版)
8月31日、武陽夏警備総司令に任ぜられ、9月2日、討賊聯軍副総司令に再任される。9月6日、漢口が国民革命軍によって陥落させられると(鄂南会戦(中国語版))、呉佩孚も河南省に逃れてきた。12月上旬、劉鎮華救援のための作戦会議に召集され、靳雲鶚は河南省南部の防衛に専念すること、第20師師長の田維勤を討賊聯軍副総司令兼援陝軍総司令として派遣すること、が決まった。会議後、給料の遅滞に不満を持っていた靳雲鶚は、機密情報だった呉佩孚との書簡のやり取りをマスコミに公開。25日、呉佩孚は「ぐずぐずして進まず、戦局を誤った」(逗留不進、貽誤軍機)として靳雲鶚の二度目の更迭と後任に寇英傑を立てることを告げた。 憤慨した靳雲鶚は、隷下部隊に呉佩孚との決別を表明(呉靳内訌)。第14師第27旅長の劉培緒がまず賛同を表明し、1927年(民国16年)元旦、第14師師長の高汝桐・第11師師長の龐炳勲・第17師師長の梁寿愷らも羅山に集まると、部隊の接収に迫った寇英傑や田維勤の第20師に反撃を開始し、鉄道を封鎖、明港・駐馬店・西平・郾城を次々と制圧して追い詰めていった。1月10日、靳雲鶚は密かに南昌に赴き、蔣介石と「駆呉反奉」の方針や呉佩孚残部の粛清について会談。また同日、武漢国民政府も王法勤を河南省に派遣、羅山に革命傾向のある将官を集めると「駆呉反奉」の計画を表明した。1月17日、呉佩孚は寇英傑を河南督弁から解任し、18日、3個軍を擁する討赤聯軍第3軍団軍団長に命じた。19日、高汝桐の第14師は郾城にて寇英傑と交戦。その間にも、省西部では国民革命軍第5路軍が迫っていた。20日、呉佩孚は王維城・王為蔚らを集め靳雲鶚の処遇について講じたところ、和議を求める声が多数だった。21日、両軍は停戦。疲弊した寇英傑は25日に辞任を申し出ると、2月7日に河南省を出て奉天派に投降した。
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