靳雲鶚との対決と奉天派への離反とは? わかりやすく解説

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靳雲鶚との対決と奉天派への離反

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 16:00 UTC 版)

寇英傑」の記事における「靳雲鶚との対決と奉天派への離反」の解説

同年秋になると、南からは中国国民党北伐北から張作霖奉天派迫り呉佩孚の討賊聯軍は次第追い詰められつつあった。9月6日漢口国民革命軍によって陥落させられると、呉佩孚河南省逃れてきた。靳雲鶚呉佩孚馮玉祥張作霖のどちらと手を組むかで対立するようになり、更に靳雲鶚給料遅滞マスコミ告発する25日呉佩孚靳雲鶚の「再解任」を通達後任寇英傑立てることを告げた寇英傑や田維勤の第20師に部隊接収命じたが、憤慨した靳雲鶚は、隷下部隊呉佩孚との決別表明呉靳内訌)。1927年民国16年元旦靳雲鶚配下の第14師長の高汝・第11師長龐炳勲・第17師長寿愷らは羅山に集まると、寇英傑や田維勤に反撃開始し鉄道封鎖、明港・駐馬店西平郾城次々と制圧し追い詰めていった。1月17日呉佩孚寇英傑河南督弁から解任し、18日、3カ軍擁する討赤聯軍第3軍団軍団長命じた19日郾城にて高汝の第14師と交戦その間にも、省西部には国民革命軍第5路軍が侵入蔣介石馮玉祥武漢国民政府靳雲鶚始め国民政府寄り将官接触行っていた。20日呉佩孚王維城・王為蔚らを集め靳雲鶚処遇について講じたところ、和議求める声が多数だった。21日両軍停戦疲弊した寇英傑25日辞任申し出ると、2月7日河南省出て奉天派投降したその後、直聯軍を率い張宗昌の下で第11方面軍軍長任じられた。しかしまもなく国民政府投降し国民革命軍44軍長任命された。 後に寇英傑は、汪兆銘南京国民政府参謀本部上将参議任命されている。しかし、具体的な活動不詳で、没年等も不明である。

※この「靳雲鶚との対決と奉天派への離反」の解説は、「寇英傑」の解説の一部です。
「靳雲鶚との対決と奉天派への離反」を含む「寇英傑」の記事については、「寇英傑」の概要を参照ください。

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