靳雲鶚との対決と奉天派への離反
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「寇英傑」の記事における「靳雲鶚との対決と奉天派への離反」の解説
同年秋になると、南からは中国国民党の北伐、北からは張作霖の奉天派が迫り、呉佩孚の討賊聯軍は次第に追い詰められつつあった。9月6日、漢口が国民革命軍によって陥落させられると、呉佩孚も河南省に逃れてきた。靳雲鶚と呉佩孚は馮玉祥と張作霖のどちらと手を組むかで対立するようになり、更に靳雲鶚が給料の遅滞をマスコミに告発すると25日、呉佩孚は靳雲鶚の「再解任」を通達、後任に寇英傑を立てることを告げた。寇英傑や田維勤の第20師に部隊の接収を命じたが、憤慨した靳雲鶚は、隷下部隊に呉佩孚との決別を表明(呉靳内訌)。1927年(民国16年)元旦、靳雲鶚の配下の第14師師長の高汝桐・第11師師長の龐炳勲・第17師師長の梁寿愷らは羅山に集まると、寇英傑や田維勤に反撃を開始し、鉄道を封鎖、明港・駐馬店・西平・郾城を次々と制圧して追い詰めていった。1月17日、呉佩孚は寇英傑を河南督弁から解任し、18日、3カ軍を擁する討赤聯軍第3軍団軍団長に命じた。19日、郾城にて高汝桐の第14師と交戦。その間にも、省西部には国民革命軍第5路軍が侵入、蔣介石や馮玉祥、武漢国民政府も靳雲鶚を始め国民政府寄りの将官と接触を行っていた。20日、呉佩孚は王維城・王為蔚らを集め靳雲鶚の処遇について講じたところ、和議を求める声が多数だった。21日、両軍は停戦。疲弊した寇英傑は25日に辞任を申し出ると、2月7日に河南省を出て奉天派に投降した。 その後、直魯聯軍を率いる張宗昌の下で第11方面軍軍長に任じられた。しかしまもなく国民政府に投降し、国民革命軍第44軍軍長に任命された。 後に寇英傑は、汪兆銘の南京国民政府で参謀本部上将参議に任命されている。しかし、具体的な活動は不詳で、没年等も不明である。
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