靳準の乱とは? わかりやすく解説

靳準の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 14:04 UTC 版)

靳準」の記事における「靳準の乱」の解説

6月劉聡崩御する劉粲即位した次女靳月華皇太后立てられ末娘の靳氏は皇后立てられた。劉粲日々歓楽耽り劉聡への哀傷の姿を見せなかったという。これを見た靳準謀反起こして政権掌握する事を計画し8月二人の娘であった皇太后靳皇后通して各地皇族が帝を廃して弟の済南劉驥立てようとしているとして粛清するよう唆した。両靳氏が機会見てこれを上奏したところ、劉粲はこれに同意し太宰上洛劉景太師昌国公劉顗、大司馬済南劉驥車騎大将軍・呉王劉逞、大司徒斉王劉勱らを捕らえると、全員処刑した政敵のいなくなった靳準大将軍録尚書事任じられ、酒に溺れて後宮入り浸りとなっていた劉粲差し置いて政務軍務問わず全ての朝政靳準取り仕切るようになった靳準劉粲の命だと偽り従弟の靳明を車騎将軍に、靳康を衛将軍任じた。また靳準金紫光禄大夫王延にも謀反計画伝えたが、王延徳望ある老臣であったことから、これに従わず朝廷報告すべく駆け込もうとした。靳康は彼を捕らえ身柄靳準のもとへ差し出した靳準時機見計らって決起すると、まず光殿に上り、甲士に命じて劉粲劉元父子を捕えさせ、劉粲父子罪状数え上げた上でこれを処刑した靳準劉氏老若男女問わず全て東市引き出して斬首し、永光宣光の二陵(劉淵劉聡の墓)を掘り返し劉聡の屍を斬った上で宗廟焼き払った平陽では受刑者たちの慟哭する声が百里渡って響いたという。靳準大将軍漢天王を名乗り百官任命した靳準は胡嵩という人物対し古来胡人天子になった者などいない。伝国璽を汝に渡すので、これを晋に返すのだ」と言った。だが、胡嵩は靳準の命を受けなかったので、靳準はこれを誅殺した。靳準東晋司州刺史李矩使者派遣し劉淵は屠各種の小醜であり、晋の乱れ乗じて天命詐称し、二帝(懐帝愍帝)を庭(蛮族土地)に幽没させました。今、私が兵を従え梓宮皇帝)を運びます。この事を朝廷上聞されますよう」と述べた李矩元帝報告すると、元帝太常韓胤などを派遣して梓宮迎え入れさせた。漢の尚書北宮純らは靳準反発し旧臣集めて東宮守った。靳康がこれを攻略すると、彼らを皆殺しにした。靳準王延を左光禄大夫任じて同志引き込もうとしたが、王延はこれを拒んで貴様逆賊である。我を殺すなら速やかに殺せ。そして、我が左目を西陽門に置くように。そうすれば相国劉曜)がお前を滅ぼすのが見られるであろうまた、我が右目を建春門置けそうすれば大将軍石勒)が入城するのを見られるであろう」と詰った靳準怒って王延処刑した相国劉曜靳準謀反を知ると、長安から平陽向かった大将軍石勒精鋭5万率いて靳準討伐掲げ襄陵北原駐軍した。靳準石勒攻撃したが、石勒守り固めて靳準鋭気削いだ10月劉曜河東赤壁に至ると、皇帝の位に即いて大赦下した。ただし、靳準一門大赦から外された。北原駐軍した石勒平陽攻撃し巴賨族・氐族羌族羯族人々石勒帰順した石勒動き呼応して劉曜は征北将軍劉雅・鎮北将軍劉策汾陰駐軍させ、石勒と共に靳準を討つよう命じた11月靳準侍中卜泰を派遣し石勒乗輿御服贈って和睦請うた。しかし、石勒は卜泰を捕える劉曜送った劉曜は卜泰へ「先帝劉粲)は確かに大倫乱した司空靳準)はただ伊尹霍光倣ってそれを誅しただけである。そのおかげで朕が即位できたので、司空には大功がある。もし朕を迎え入れるなら、今まで全て許し政事任せるつもりだ。卿は朕のために城に帰り、朕の意思伝えよ」と述べた。卜泰は平陽帰る靳準事の次第報告した。しかし、靳準劉氏一族皆殺しにしていたので、投降躊躇った。 12月左車騎将軍喬泰・右車騎将王騰衛将軍靳康らは、遂に靳準見限って殺害し尚書令靳明を新たな主君立てた。靳明らは卜泰を劉曜陣営派遣すると、伝国璽返上し平陽士女1万5000人を率いて帰順した。だが、劉曜は靳氏一族許さず老若男女問わず靳氏一族皆殺しとなった。この靳準の乱をきっかけとして、漢は劉曜前趙石勒後趙分裂した

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靳準の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 19:05 UTC 版)

劉曜」の記事における「靳準の乱」の解説

318年7月劉聡は病に倒れると、劉曜丞相に、石勒大将軍任じて二人を共に録尚書事任じ遺詔与えて政治補佐するよう命じたが、二人とも固辞した。その為、改め劉曜丞相・領雍州牧に、石勒大将軍・領幽冀二州牧に任じた劉聡崩御すると子の劉粲即位した。しかし妻の靳皇后中国語版)の父親である靳準唆され劉粲は、大司馬劉驥始め漢の重臣達を次々処刑していき、また国政顧みず酒色溺れようになった。しかし即位からわずか1カ月後、劉粲太子劉元と共に靳準反乱により殺害されのみならず首都平陽住まう劉氏一族人間は、老若男女問わず全て東市引き出され斬首された。こうして靳準は自ら漢天王を称したが、長安にいた劉曜靳準謀反を知ると平陽向かい同じく石勒靳準討伐掲げ精鋭5万率いて襄陵北原駐屯した。 10月劉曜河東赤壁に至ると、太保呼延晏太傅紀らの勧め受けて皇帝への即位宣言し大赦下す元号光初改元した。また石勒の下にも使者送り大司馬大将軍任じて九錫加え爵位を趙公へと進めた11月劉曜靳準対し先帝劉聡もしくは劉粲)は大倫乱し善良な人間多く誅殺したため世直し必要な状況だった。司空靳準)はただ伊尹霍光倣ってそれを誅しただけであり、おかげで朕が即位できたのであり、司空勲功古人のように高く人徳天地等しい。司空これまでどおり忠誠続け速やかに大駕劉曜の車)を平陽迎え入れるなら、今まで全て許そう祭祀劉氏である朕が行い、政事全て汝に任せるつもりだ。卿は城に帰り、朕の意思司空伝えるように」と述べた。 しかし靳準投降するか否か決断躊躇ったため、部下の者たちはついに靳準見限って殺害し靳準従弟である尚書令靳明を新たな主君立てた。靳明らは劉曜陣営使者送り伝国璽返上して帰順求めた劉曜大い喜び、卜泰へ「朕が玉璽手に入れ名実ともに帝王成ったのは、他でもない汝の功である」と語った。しかし北原にいた石勒は靳明らが劉曜降伏した聞く激怒して靳明を攻撃し敗戦重ねた靳明は劉曜救援求めた劉曜は靳明ら一行迎え入れると、前言翻して靳氏一族老若男女問わず皆殺しにした。劉曜は征北将軍劉雅命じ劉曜の母の胡氏亡骸平陽から迎え粟邑埋葬し宣明皇太后と諡した。また、高祖父劉亮尊んで景皇帝曾祖父の劉広を献皇帝祖父の劉防を懿皇帝、父の劉緑を宣成皇帝それぞれ諡した。

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