靳準の乱
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6月、劉聡が崩御すると劉粲が即位した。次女の靳月華は皇太后に立てられ、末娘の靳氏は皇后に立てられた。劉粲は日々歓楽に耽り、劉聡への哀傷の姿を見せなかったという。これを見た靳準は謀反を起こして政権を掌握する事を計画し、8月、二人の娘であった靳皇太后と靳皇后を通して、各地の皇族が帝を廃して弟の済南王劉驥を立てようとしているとして粛清するよう唆した。両靳氏が機会を見てこれを上奏したところ、劉粲はこれに同意し、太宰・上洛王劉景、太師・昌国公劉顗、大司馬・済南王劉驥、車騎大将軍・呉王劉逞、大司徒・斉王劉勱らを捕らえると、全員処刑した。政敵のいなくなった靳準は大将軍・録尚書事に任じられ、酒に溺れて後宮に入り浸りとなっていた劉粲を差し置いて、政務・軍務問わず全ての朝政を靳準が取り仕切るようになった。 靳準は劉粲の命だと偽り、従弟の靳明を車騎将軍に、靳康を衛将軍に任じた。また靳準は金紫光禄大夫王延にも謀反の計画を伝えたが、王延は徳望ある老臣であったことから、これに従わずに朝廷へ報告すべく駆け込もうとした。靳康は彼を捕らえ、身柄を靳準のもとへ差し出した。靳準は時機を見計らって決起すると、まず光極殿に上り、甲士に命じて劉粲・劉元公父子を捕えさせ、劉粲父子の罪状を数え上げた上でこれを処刑した。靳準は劉氏を老若男女問わず全て東市に引き出して斬首し、永光・宣光の二陵(劉淵と劉聡の墓)を掘り返し、劉聡の屍を斬った上で宗廟を焼き払った。平陽では受刑者たちの慟哭する声が百里に渡って響いたという。靳準は大将軍・漢天王を名乗り、百官を任命した。 靳準は胡嵩という人物に対し「古来、胡人で天子になった者などいない。伝国璽を汝に渡すので、これを晋に返すのだ」と言った。だが、胡嵩は靳準の命を受けなかったので、靳準はこれを誅殺した。靳準は東晋の司州刺史李矩へ使者を派遣し「劉淵は屠各種の小醜であり、晋の乱れに乗じて天命を詐称し、二帝(懐帝と愍帝)を虜庭(蛮族の土地)に幽没させました。今、私が兵を従え、梓宮(皇帝の棺)を運びます。この事を朝廷に上聞されますよう」と述べた。李矩が元帝に報告すると、元帝は太常韓胤などを派遣して梓宮を迎え入れさせた。漢の尚書北宮純らは靳準に反発し、旧臣を集めて東宮を守った。靳康がこれを攻略すると、彼らを皆殺しにした。靳準は王延を左光禄大夫に任じて同志に引き込もうとしたが、王延はこれを拒んで「貴様は逆賊である。我を殺すなら速やかに殺せ。そして、我が左目を西陽門に置くように。そうすれば相国(劉曜)がお前を滅ぼすのが見られるであろう。また、我が右目を建春門に置け。そうすれば大将軍(石勒)が入城するのを見られるであろう」と詰った。靳準は怒って王延を処刑した。 相国の劉曜が靳準の謀反を知ると、長安から平陽に向かった。大将軍の石勒も精鋭5万を率いて靳準討伐を掲げ、襄陵北原に駐軍した。靳準は石勒を攻撃したが、石勒は守りを固めて靳準の鋭気を削いだ。 10月、劉曜が河東の赤壁に至ると、皇帝の位に即いて大赦を下した。ただし、靳準一門は大赦から外された。北原に駐軍した石勒は平陽を攻撃し、巴賨族・氐族・羌族・羯族の人々が石勒に帰順した。石勒の動きに呼応して劉曜は征北将軍劉雅・鎮北将軍劉策を汾陰に駐軍させ、石勒と共に靳準を討つよう命じた。 11月、靳準は侍中卜泰を派遣し、石勒に乗輿や御服を贈って和睦を請うた。しかし、石勒は卜泰を捕えると劉曜に送った。劉曜は卜泰へ「先帝(劉粲)は確かに大倫を乱した。司空(靳準)はただ伊尹や霍光に倣ってそれを誅しただけである。そのおかげで朕が即位できたので、司空には大功がある。もし朕を迎え入れるなら、今までの全てを許し、政事を任せるつもりだ。卿は朕のために城に帰り、朕の意思を伝えよ」と述べた。卜泰は平陽に帰ると靳準へ事の次第を報告した。しかし、靳準は劉氏の一族を皆殺しにしていたので、投降を躊躇った。 12月、左車騎将軍喬泰・右車騎将軍王騰・衛将軍靳康らは、遂に靳準を見限って殺害し、尚書令靳明を新たな主君に立てた。靳明らは卜泰を劉曜の陣営に派遣すると、伝国璽を返上し、平陽の士女1万5000人を率いて帰順した。だが、劉曜は靳氏一族を許さず、老若男女問わず靳氏一族は皆殺しとなった。この靳準の乱をきっかけとして、漢は劉曜の前趙・石勒の後趙に分裂した。
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靳準の乱
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318年7月、劉聡は病に倒れると、劉曜を丞相に、石勒を大将軍に任じて、二人を共に録尚書事に任じ、遺詔を与えて政治を補佐するよう命じたが、二人とも固辞した。その為、改めて劉曜を丞相・領雍州牧に、石勒を大将軍・領幽冀二州牧に任じた。劉聡が崩御すると子の劉粲が即位した。しかし妻の靳皇后(中国語版)の父親である靳準に唆された劉粲は、大司馬劉驥を始め漢の重臣達を次々に処刑していき、また国政を顧みず酒色に溺れるようになった。しかし即位からわずか1カ月後、劉粲は太子の劉元公と共に靳準の反乱により殺害され、のみならず首都平陽に住まう劉氏一族の人間は、老若男女問わず全て東市に引き出されて斬首された。こうして靳準は自ら漢天王を称したが、長安にいた劉曜は靳準の謀反を知ると平陽に向かい、同じく石勒も靳準を討伐を掲げ、精鋭5万を率いて襄陵北原に駐屯した。 10月、劉曜は河東の赤壁に至ると、太保呼延晏や太傅朱紀らの勧めを受けて皇帝への即位を宣言し、大赦を下すと元号を光初と改元した。また石勒の下にも使者を送り、大司馬・大将軍に任じて九錫を加え、爵位を趙公へと進めた。11月、劉曜は靳準に対し「先帝(劉聡もしくは劉粲)は大倫を乱し、善良な人間を多く誅殺したため、世直しが必要な状況だった。司空(靳準)はただ伊尹や霍光に倣ってそれを誅しただけであり、おかげで朕が即位できたのであり、司空の勲功は古人のように高く、人徳は天地に等しい。司空がこれまでどおり忠誠を続け、速やかに大駕(劉曜の車)を平陽に迎え入れるなら、今までの全てを許そう。祭祀は劉氏である朕が行い、政事は全て汝に任せるつもりだ。卿は城に帰り、朕の意思を司空へ伝えるように」と述べた。 しかし靳準は投降するか否かの決断を躊躇ったため、部下の者たちはついに靳準を見限って殺害し、靳準の従弟である尚書令靳明を新たな主君に立てた。靳明らは劉曜の陣営に使者を送り、伝国璽を返上して帰順を求めた。劉曜は大いに喜び、卜泰へ「朕が玉璽を手に入れ、名実ともに帝王と成ったのは、他でもない汝の功である」と語った。しかし北原にいた石勒は靳明らが劉曜に降伏したと聞くと激怒して靳明を攻撃し、敗戦を重ねた靳明は劉曜に救援を求めた。劉曜は靳明ら一行を迎え入れると、前言を翻して靳氏一族を老若男女問わず皆殺しにした。劉曜は征北将軍劉雅に命じ、劉曜の母の胡氏の亡骸を平陽から迎え、粟邑に埋葬して宣明皇太后と諡した。また、高祖父の劉亮を尊んで景皇帝、曾祖父の劉広を献皇帝、祖父の劉防を懿皇帝、父の劉緑を宣成皇帝とそれぞれ諡した。
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