後趙建国
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光初元年(318年)、靳準の乱で隠帝劉粲が殺されてしまう。長安にいた劉曜が皇帝に即位を宣言すると、10月に石勒を大司馬・大将軍・趙公として九錫を授けることで東西から靳準を挟撃しようとした。しかし、これは石勒にとっては西方に進出する好機であり、次第に双方の思惑にずれが生じることになる。 光初2年(319年)、靳準の乱を平定後に、劉曜と対立するようになった。孔萇が幽州を平定した。11月、24郡・戸数29万で趙王を称し、後趙を建国して、即位の年を趙王元年とした。張賓を大執法として朝政を総覧させ、石虎を単于元輔とした。趙王2年(320年)、祖逖によって黄河以南は東晋の支配下に入った、石勒は祖逖との融和に努めて、黄河以南を攻撃せず祖逖とは休戦状態になった。趙王3年(321年)、石虎が段匹磾と段文鴦を降服させた。 石勒は法律の施行・九品の決定・度量衡の統一・戸籍の作成・農業の奨励を行い、混乱した河北の秩序を回復させていった。 趙王4年(322年)、石弘を世子にして、黄河以南へ攻撃を再開した。張賓が死去し、代えて程遐に朝政を総覧させた。趙王5年(323年)、曹嶷を滅ぼし青州を平定した。趙王7年(325年)、東晋と前趙の勢力を駆逐し洛陽を領有し、淮河北岸まで支配下に入れた。趙王8年(326年)、石虎に代えて石弘に鄴を任せ、王陽に補佐させた。趙王10年(328年)、師懽が黒兎を献上し、瑞兆として太和と建元した。7月、淮河を超え寿春を陥落させた。8月、劉曜の前趙に洛陽を占領されたが、12月に奪回して劉曜を捕虜にした。太和2年(329年)、劉曜を殺し、さらに長安を攻略して前趙を滅ぼした。張駿が使者を送って称藩し、華北の大半を平定した。太和3年(330年)には天王と称し、後趙を晋の金徳に続く水徳の王朝とした。8月、帝位に即き、建平と改元した。以降は江南の東晋と対峙した。 建平4年(333年)7月に崩御。帝位には石弘が即いた。
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