後趙建国とは? わかりやすく解説

後趙建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 02:10 UTC 版)

石勒」の記事における「後趙建国」の解説

光初元年318年)、靳準の乱隠帝劉粲殺されてしまう。長安にいた劉曜皇帝即位宣言すると、10月石勒大司馬大将軍・趙公として九錫授けることで東西から靳準挟撃ようとした。しかし、これは石勒にとっては西方進出する好機であり、次第双方の思惑にずれが生じることになる。 光初2年319年)、靳準の乱平定後に、劉曜対立するようになった孔萇幽州平定した。11月24郡・戸29趙王称し後趙建国して、即位の年を趙王元年とした。張賓を大執法として朝政総覧させ、石虎単于元輔とした。趙王2年320年)、祖逖によって黄河以南東晋支配下入った石勒祖逖との融和努めて黄河以南攻撃せず祖逖とは休戦状態になった趙王3年321年)、石虎段匹磾段文鴦降服させた。 石勒法律の施行九品決定度量衡統一戸籍作成農業奨励行い混乱した河北秩序回復させていった趙王4年322年)、石弘世子にして、黄河以南攻撃再開した張賓死去し代えて程遐朝政総覧させた。趙王5年323年)、曹嶷滅ぼし青州平定した。趙王7年325年)、東晋前趙勢力駆逐し洛陽領有し淮河北岸まで支配下入れた趙王8年326年)、石虎代えて石弘に鄴を任せ王陽補佐させた。趙王10年328年)、師懽が黒兎献上し瑞兆として太和建元した。7月淮河超え寿春陥落させた。8月劉曜前趙洛陽占領されたが、12月奪回し劉曜捕虜にした。太和2年329年)、劉曜殺し、さらに長安攻略し前趙滅ぼした張駿使者送って称藩し、華北大半平定した。太和3年330年)には天王称し後趙を晋の金徳に続く徳の王朝とした。8月帝位に即き、建平改元した。以降江南東晋対峙した。 建平4年333年7月崩御帝位には石弘が即いた。

※この「後趙建国」の解説は、「石勒」の解説の一部です。
「後趙建国」を含む「石勒」の記事については、「石勒」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「後趙建国」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後趙建国」の関連用語

1
8% |||||

2
4% |||||

後趙建国のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後趙建国のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石勒 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS