後趙との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:48 UTC 版)
319年6月、趙固の死に乗じ、後趙の将軍石生は騎兵を派遣して陽翟の郭誦を襲撃した。郭誦は智謀に長け、伏兵を設けてこれを破り、石生は何も戦果を挙げられなかった。石生は怒って自ら四千騎余りを率いて諸県を暴掠すると、さらに郭誦の砦を攻撃するも堮坂で敗れた。郭誦は勇士五百を率いて石生を追撃し、磐脂故亭においてこれを大破した。李矩は郭誦の功績を称え、上表して赤幢・曲蓋の使用を許し、吉陽亭侯に封じた。 320年2月、前趙の弘農郡太守尹安・振威将軍宋始を始めとした四軍は洛陽を占拠していたが、彼らは互いに不和を生じていたので、李矩は郭黙と共に各々千騎を洛陽へ侵入させ、これを鎮守させた。だが、尹安らが後趙に降伏の使者を送ると、石生が騎兵五千を率いて洛陽へと到来したので、李矩らの兵は撤退した。その後、尹安らは後趙からも背いて李矩に使者を派遣して救援を乞うと、李矩は郭黙にまた歩兵五百を派遣して洛陽へ入らせた。石生は宋始を攻撃してその将兵を捕らえると、黄河を渡って北へ引き上げた。河南の人々はみな李矩に付き従ったので、洛陽は空になった。 6月、李矩を始めとした東晋の諸将は互いに対立しあっていたが、豫州刺史祖逖は使者を送って彼らの融和を図った。これにより、李矩らは祖逖の指揮を仰ぐようになったという。 324年1月、後趙の司州刺史石生は陽翟を襲撃したが、郭誦はこれを大破し、石生を康城に撤退させた。後趙の汲郡内史石聡は石生の敗戦を聞いて救援に向かい、李矩・郭黙はこれを迎え撃つも敗れた。 郭黙が祖逖の後を継いだ豫州刺史祖約を攻撃しようとすると、李矩はこれを止めようとしたが、郭黙は従わずに出兵して祖約に敗れた。 石聡が郭黙を攻めると、郭黙は幾度も後趙から攻撃を受けていたので疲弊し、前趙に降ろうと考えた。その為、参軍鄭雄を派遣してこの事を李矩に持ち掛けたが、李矩は許さなかった。 325年、後趙の将軍石瞻が精兵五千を率いて李矩を襲撃すると、李矩は迎撃するも敗れた。この時、郭誦の弟郭元が後趙に捕らえられ、後趙は郭元を派遣して書をもって李矩へ「去年、東の曹嶷を平らげ、西の猗盧を服属させた。矩は牛角のように真っ先にその矢面に立つ者であるのに、どうして命に服さないのだ」と降伏を勧めると、李矩はこの書を郭誦に見せた。すると郭誦は「昔、王陵は母が賊に捕らわれとなっても、なおその意を改めませんでした。まして弟であるのにどうして論じましょうか!」と言い放った。その後も石勒は郭誦に麈尾・馬鞭を贈って臣従を求めたが、郭誦は応じなかった。
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