後趙に加担
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:40 UTC 版)
350年2月に冉閔が帝位を簒奪した時、鄴にいた後趙の皇族は尽く虐殺されてしまったが、石虎の子である新興王石祗は襄国(現在の河北省邢台市邢台県)の統治に当たっていた為に難を逃れており、同年3月には冉閔に対抗して帝位に即いていた。 同年11月、冉閔は歩兵・騎兵併せて10万を率いて襄国へ侵攻し、城を包囲した。351年2月、包囲が百日余りに渡って続くと、石祗は独力では冉閔を撃退できないと判断し、皇帝号を取り去って趙王を称すとともに、かつて後趙の太尉であった張挙に伝国璽を持たせて前燕へ派遣し(但しこれは偽物であり、本物は冉魏の首都である鄴にある)、慕容儁へ救援を要請した。慕容儁はこの申し出に応じ、禦難将軍悦綰に兵3万を与えて救援に向かわせ、石祗と合流して冉閔を討つよう命じた。羌族酋長の姚弋仲もまた子の姚襄を救援の為に差し向け、冀州にいた後趙の汝陰王石琨もまた兵を率いて襄国救援に向かった。 前燕が石祗に協力して援軍を派遣すると聞いた冉閔は、大司馬従事中郎常煒を前燕へ派遣して慕容儁を翻意させようとした。常煒が龍城に到着すると、慕容儁は直接言葉を交わさず、記室封裕を介して冉閔の暴虐について詰問したが、常煒は堂々と反論して冉閔こそ正当な中原の主であると説いた。また、本物の伝国璽は冉閔の統治する鄴にあり、張挙が襄国から持ってきたものは偽作であると訴えた。慕容儁は張挙の言葉を信じていたので取り合わず、傍らに柴を積み重ねて常煒を脅した(火刑を暗示)が、常煒は一切臆する事無く、逆に慕容儁が父祖代々の仇敵である筈の後趙に味方しようとしている事を非難した。これを聞いた左右の側近は常煒を処刑するよう勧めたが、慕容儁は「彼は死を恐れずに主君に準じようとしているのだ。これこそ忠臣であろう!冉閔に罪はあっても、どうしてその罪を臣下に委ねる事が出来ようか!」と言い、退出を許可して館へ送り届けた。その夜、慕容儁は常煒と同郷であった趙瞻をその館に派遣して慰労と説得に当たらせたが、常煒が全く応じなかった為、遂に龍城へ幽閉した。 同月、慕容儁は再び龍城を発ち、薊へ赴いた。 3月、姚襄軍・石琨軍が襄国に迫ると、冉閔は出撃してこれを迎え撃った。悦綰もまた敵軍から僅か数里の所まで逼迫すると、騎兵同士の間隔を敢えて開け、馬に柴を引っ張らせて埃を巻き上げさせた。この砂埃を見て冉魏の兵は大軍が来たと思い込み、恐れ慄いて戦意を喪失した。悦綰はこの機を逃さずに姚襄・石琨と共に三方から攻め立て、さらに石祗も城を出撃して後方から呼応した。四方向からの挟撃により冉閔は大敗を喫し、かろうじて僅か10騎余りを伴って鄴まで逃げ帰った。この戦いによる死者の数は10万人を超えたという。
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