後趙侵攻、温嶠の反攻作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 17:07 UTC 版)
「蘇峻の乱」の記事における「後趙侵攻、温嶠の反攻作戦」の解説
328年4月、祖約軍の主力が出払っていることに勘付いた後趙の石勒は石堪を派兵して宛を攻撃し、苑を守備する南陽郡太守王国が後趙に寝返る。更に淮上で石堪と祖約が対峙した際に祖約配下の陳光が謀反し祖約を襲い、祖約は辛うじてこの場は逃げ延びたが陳光もそのまま後趙へと寝返り一気に窮地へと立たされる。 一方で尋陽に駐屯する温嶠は范汪からの報告で蘇峻が暴政によって人望を失っている事を知り、建康奪還の兵を挙げることを決意。温嶠と庾亮はどちらが大将となるか協議したが決まらず、見かねた温充が未だ旗色が不鮮明な陶侃を味方に引き込み大将とする事を提案する。温嶠は陶侃に参陣を促したものの当初は色良い返事が無く、温嶠は諦めて自分たちだけで蘇峻の討伐に向かおうとしたが毛宝がこれを諌め、気を取り直した温嶠は以後も粘り強く説得して陶侃もついに派兵を了承した。郗鑒は北の後趙の活発化によってまたしてこの時点では直接動けなかったが、夏侯長などを派遣して温嶠と合流させ、蘇峻軍は太子の身柄を押さえたまま東遷すると先読みして塁を設営して敵の糧道を封鎖する事を温嶠に献策した。
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