蘇峻の乱とは? わかりやすく解説

蘇峻の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 03:05 UTC 版)

蘇峻の乱(そしゅんのらん)は、中国東晋初期の327年から329年にかけて歴陽内史蘇峻が起こした反乱。


  1. ^ 『晋書』成帝紀
  2. ^ 川勝『魏晋南北朝』、P220


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蘇峻の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:20 UTC 版)

温嶠」の記事における「蘇峻の乱」の解説

明帝死後司馬衍成帝として即位したが、まだ4歳幼児政務実権生母庾文君垂簾聴政することとなり、実家である庾氏一族権勢高まったが、一方で明帝死後の恩賞巡って中書令庾亮祖約陶侃ら有力軍閥対立深まった咸和元年326年)、庾亮先の王敦の乱鎮定に功を挙げた歴陽郡太守蘇峻増長危惧し温嶠都督江州諸軍事・江州刺史として武昌に鎮させた。 咸和2年327年10月庾亮蘇峻の軍剥奪するべく朝廷召喚しようと画策強引な手法取ろうとする庾亮王導卞壼と共に温嶠もこれを諌めたが、庾亮決意は覆らず蘇峻大司農任命して中央呼び出した蘇峻はこれに激怒して庾亮反感を抱く祖約結託して庾亮誅伐の兵を起こした(蘇峻の乱)。 この事態温嶠急ぎ兵を率いて建康守備参じようとするが、庾亮西方陶侃連携して乱を起こす事を危惧して温嶠江州にとどまるよう指示した。しかし、これが災いして官軍蘇峻の軍に大敗し咸和3年328年2月建康反乱軍の手落ち庾亮命からがら追手から逃れ温嶠元に匿われた。同年1月温嶠建康奪還する下準備として鎮を尋陽移し4月には庾亮とともに7,000の兵を集めた蘇峻討伐には充分でないとして庾亮未だ旗色鮮明でない陶侃との会談勧めた。この会談庾亮陶侃和解し陶侃官軍参戦また、温嶠郗鑒にも遣い送り協力取り付けることに成功した5月には陶侃の軍と合流してついに蘇峻の軍と交戦状態に入り温嶠配下毛宝水軍祖約撃破し合肥押さえ9月白石戦いでついに蘇峻討ち果たした咸和4年329年1月には蘇峻残党掃討して蘇峻の乱を鎮め、乱鎮定多大な功を挙げた乱後温嶠焦土化した建康替わって首都豫章に移すように提案した王導反対さ実現しなかった。同年3月には論功驃騎将軍開府儀同三司散騎常侍始安郡公となり、邑3,000戸を加増された。 しかし、乱鎮定論功よりわずか1カ月後に急死する享年42遺体豫章埋葬された。その死後成帝より侍中大将軍、銭百万・布千匹を追贈され、忠武と諡された。

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蘇峻の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 04:39 UTC 版)

郭黙」の記事における「蘇峻の乱」の解説

咸和2年327年10月中書令庾亮強大な兵権を握る歴陽内史蘇峻朝廷召還しようしてその兵を奪おう画策し、また同時に蘇峻反乱を起こすのを恐れ郭黙後将軍・領屯騎校尉任じてこれに備えた同月、蘇峻の乱が勃発した咸和3年328年1月都督大桁諸軍卞壼侍中鍾雅傘下入り西陵において蘇峻阻んだ郭黙自身戦功挙げたものの、討伐軍は蘇峻攻勢抑える事は出来ず大敗喫した。やがて建康陥落すると、郭黙庾亮趙胤と共に尋陽逃れた6月荊州刺史陶侃の命により、兗州刺史郗鑒と共に京口に拠った。大業曲阿・庱亭に3つの砦を築き反乱軍勢力分断させる計画立案されると、郭黙大業派遣されてこれを守った9月蘇峻将軍張健韓晃らが大業へ急攻すると、砦内は水不足に陥り、糞汁ですら飲用されたという。郭黙恐れて密かに南門から脱出し、兵を留めて砦を固守させた。329年2月、蘇峻の乱は平定され、大業包囲解かれた。

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