蘇峻の乱
蘇峻の乱
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明帝の死後、司馬衍が成帝として即位したが、まだ4歳の幼児で政務の実権は生母庾文君が垂簾聴政することとなり、実家である庾氏一族の権勢も高まったが、一方で明帝死後の恩賞を巡って中書令庾亮と祖約・陶侃ら有力軍閥の対立が深まった。 咸和元年(326年)、庾亮は先の王敦の乱鎮定に功を挙げた歴陽郡太守蘇峻の増長を危惧し、温嶠を都督江州諸軍事・江州刺史として武昌に鎮させた。 咸和2年(327年)10月、庾亮は蘇峻の軍権を剥奪するべく朝廷に召喚しようと画策。強引な手法を取ろうとする庾亮に王導、卞壼らと共に温嶠もこれを諌めたが、庾亮の決意は覆らず蘇峻を大司農に任命して中央に呼び出した。蘇峻はこれに激怒して庾亮に反感を抱く祖約と結託して庾亮誅伐の兵を起こした(蘇峻の乱)。 この事態に温嶠も急ぎ兵を率いて建康の守備に参じようとするが、庾亮は西方の陶侃が連携して乱を起こす事を危惧して温嶠に江州にとどまるよう指示した。しかし、これが災いして官軍は蘇峻の軍に大敗し、咸和3年(328年)2月に建康は反乱軍の手に落ち、庾亮も命からがら追手から逃れ温嶠の元に匿われた。同年1月、温嶠は建康を奪還する下準備として鎮を尋陽に移し、4月には庾亮とともに7,000の兵を集めたが蘇峻討伐には充分でないとして庾亮に未だ旗色が鮮明でない陶侃との会談を勧めた。この会談で庾亮と陶侃は和解し、陶侃が官軍に参戦。また、温嶠は郗鑒にも遣いを送り協力を取り付けることに成功した。5月には陶侃の軍と合流してついに蘇峻の軍と交戦状態に入り、温嶠配下の毛宝の水軍が祖約を撃破して合肥を押さえ、9月に白石の戦いでついに蘇峻を討ち果たした。 咸和4年(329年)1月には蘇峻の残党を掃討して蘇峻の乱を鎮め、乱鎮定に多大な功を挙げた。乱後、温嶠は焦土と化した建康に替わって首都を豫章に移すように提案したが王導に反対され実現しなかった。同年3月には論功で驃騎将軍・開府儀同三司・散騎常侍・始安郡公となり、邑3,000戸を加増された。 しかし、乱鎮定の論功よりわずか1カ月後に急死する。享年42。遺体は豫章に埋葬された。その死後、成帝より侍中・大将軍、銭百万・布千匹を追贈され、忠武と諡された。
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蘇峻の乱
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咸和2年(327年)10月、中書令庾亮は強大な兵権を握る歴陽内史蘇峻を朝廷に召還しようしてその兵を奪おうと画策し、また同時に蘇峻が反乱を起こすのを恐れ、郭黙を後将軍・領屯騎校尉に任じてこれに備えた。同月、蘇峻の乱が勃発した。 咸和3年(328年)1月、都督大桁東諸軍事卞壼・侍中鍾雅の傘下に入り、西陵において蘇峻を阻んだ。郭黙自身は戦功を挙げたものの、討伐軍は蘇峻の攻勢を抑える事は出来ず、大敗を喫した。やがて建康が陥落すると、郭黙は庾亮・趙胤らと共に尋陽に逃れた。 6月、荊州刺史陶侃の命により、兗州刺史郗鑒と共に京口に拠った。大業・曲阿・庱亭に3つの砦を築き、反乱軍の勢力を分断させる計画が立案されると、郭黙は大業に派遣されてこれを守った。9月、蘇峻の将軍張健・韓晃らが大業へ急攻すると、砦内は水不足に陥り、糞汁ですら飲用されたという。郭黙は恐れて密かに南門から脱出し、兵を留めて砦を固守させた。329年2月、蘇峻の乱は平定され、大業の包囲も解かれた。
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