蘇峻撃破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)
咸和3年(328年)、蘇峻の乱が勃発すると、首都建康は反乱軍により占拠され、陶侃の子の陶瞻も殺害された。温嶠は陶侃へ、共に出兵して皇室を救うよう求めた。陶侃は温嶠へ「我は外守の将に過ぎず、自己の職務を超えるような自信はありません」と一度は断ったが、温嶠は固くこれを要請し、ついに彼を推薦して盟主とした。陶侃は督護の龔登を派遣し、軍を率いて温嶠と合流させたが、その後ろを追わせるのみであり、積極的に参与しなかった。温嶠は蘇峻が陶侃の子を殺害したことを何度も書面にして伝え、彼を激怒させようとした。また、陶侃の妻の龔氏へも彼自身の出兵を願った。そのため、ついに陶侃は軍服を着けて船に乗り込むと、息子の葬儀にも参加せずに昼夜休みなしで行軍した。 5月、温嶠・庾亮らと石頭城下で合流した。乱平定の過程において、陶侃は勤王軍の盟主となった。当時庾亮は軍を率いて蘇峻と戦っていたが、軽率に進軍して利を失い、逆に敗れた。庾亮は割り符を持って陶侃に謝罪すると「優れた古人でも三度敗れると言い、君候はやっと二度敗けたところです。今は緊急を要するときであり、このようなことを言い争うときではありますまい」と言い、庾亮へ寛容な態度を取ったので、諸将は奮戦した。庾亮の司馬殷融も陶侃の下を訪れて謝罪し「将軍にこの問題を対処して頂きたく。我らの裁ける問題ではございません」と言った。将軍の王章は陶侃へ「私が対処するので、将軍の手を煩わせる必要はありません」と言った。これを聞いた陶侃は「昔は殷融が君子で、王章は小人だと思っていたが、今は王章が君子で、殷融が小人であるな」と言った。 連合軍は蘇峻と争うも度々敗北を喫した。温嶠軍の食糧が不足すると、陶侃軍から無断で借用しようと考えた。陶侃はこれに大いに怒り、荊州へ軍を退き上げようかと考えたが、毛宝が仲介に入り、5万石の穀物を温嶠へ供出することで話がまとまり、引き上げを取りやめた。 陶侃は良く諸将の意見を聞き、提案にも耳を傾けた。郗鑒を広陵から招き、河を渡らせて京口を守らせ、蘇峻を東西から挟撃し重要な戦果を挙げた。諸将は決戦を望んだが、陶侃は賊軍が強勢であるのを見て、強硬策を禁じ、時機が来るまで耐え、知略を用いて彼等を破るべきだとした。その後、幾度か交戦したが成果は上がらなかった為、諸将は査浦に陣営を築くよう求めた。一方で、監軍武将の李根は白石に陣営を立てるよう進言した。陶侃は「もし陣営ができなければ、汝が責任を取るのか」と問うと、李根は「査浦は低地であり、また長江がすぐ南にあります。ただ白石のみが険要・堅固であり、数千人を収容できます。賊が攻め寄せても攻めるのは容易ではなく、これこそ賊を討つ良い戦術です」と言った。すると陶侃は笑って「汝は真の良将であるな」と言い、李根の策を採用した。すぐに白石に陣を構築し、夜明けにはこれを完成させたので、賊軍は大いに驚いた。賊軍が大業の陣営を攻撃すると、陶侃はこれを救おうと考えたが、長史の殷羨は「歩兵だけでは我らは蘇峻に及びません。兵を派遣して大業を救っても、大事を成りにくいでしょう。逆に今急いで石頭城を攻撃すれば、蘇峻は必ずこれを救おうとするので、大業は自ずと解放されるでしょう」と言ったので、陶侃は殷羨の進言を採用した。果して蘇峻は大業を放棄して石頭城を救援に向かうと、諸道にいた義軍は蘇峻と陳稜の東で交戦した。陶侃の督護である竟陵郡太守李陽は蘇峻と戦闘し、配下の彭世は蘇峻を陣中にて斬り、賊軍は大いに乱れた。蘇峻の弟である蘇逸は敗残兵を集めたが、陶侃は諸軍と共に軍を進めて、蘇逸を石頭城において斬り殺した。 この乱が鎮まって以後、江南地方は70年余りの間安定を維持し、大規模な乱は起きなかった。これにより東晋社会の安定は経済発展を大きく促した。陶侃はこの局面を作る上で決して小さくない役割を担った。 庾亮は若くして高名が有り、明穆皇后の兄である顧命の重責を受ける身であったが、蘇峻が乱を起こしたのはもっぱら彼に責任があった。石頭城が平定された後、庾亮は陶侃に誅殺されるのではと恐れたが、温嶠の進めに従って再度陶侃のもとを訪れて拝謝した。しかし、陶侃はこれを押し止め「庾元規(庾亮)殿がどうして私のような者に拝礼するのでしょうか」と言った。 王導が石頭城に入ると、古い節を回収させたが、陶侃は笑って「これらは蘇武の節と似ておりますが、このようなものではなかったでしょう」と言い、これを聞いた王導は大いに恥じ入り、人にこれを捨てさせたという。
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