蘇峻残党の掃討
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 17:07 UTC 版)
329年1月、陸曄・陸玩兄弟の説得に応じて宛の匡術が官軍に降伏。更に趙胤の遣わせた甘苗が歴陽に攻め込み、祖約は数百人余りを引き連れて歴陽から脱出し後趙へと投降した。この頃に石頭城の成帝を救出しようと劉超・鍾雅らが謀ったが、事前に計画が漏れて任譲に斬殺された。 2月に官軍は石頭城を総攻撃し、司馬滕が蘇逸を破って捕縛すると蘇碩を温嶠が討ち取り、司馬滕の家臣である曹據が成帝の身柄を確保して船で温嶠の陣へ保護する事に成功。戦後、蘇逸を始めとして司馬羕と二人の子と司馬雄・孫崧・任譲らは尽く処断され、この場は生き延びた韓晃・馬雄らも李閎に捕捉されて平陵山で尽く斬られ、蘇峻の乱は完全に鎮定された。
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