蘇峻入朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 17:07 UTC 版)
建康に押し入った蘇峻軍はすぐさま宮殿に乱入して来たが、ここで王導は褚翜に成帝を抱きかかえたまま太極前殿に登らせ、鍾雅と劉超をその左右両脇に立たつよう命じ、王導自身と陸曄、荀崧、張闓らも成帝を守るようにして壇上に上がり押し入った蘇峻軍と対峙し、褚翜が直立不動のまま非礼を一喝すると名望のある彼らに対して蘇峻軍も敢えてその場では手出しはしなかった。しかしながら後宮では皇后や宮女達に狼藉を働き、光禄勲の王彬ら宮人を皆鞭打ちに処した後に兵を担がせたまま蒋山に登らせ、更には士女達を皆裸に剥いて茅を被せ、茅が足りなくなれば土を被せるなど暴虐の限りを尽くした後に国庫を暴いて布二十万匹、金銀五千斤、錢億萬、絹数万匹を我が物として瞬く間に費やした。 建康を制圧し政権を掌握した蘇峻は大赦を出したが、庾亮とその兄弟だけは大罪人として対象から外した。そして蘇峻は自身を驃騎将軍、録尚書事とすると祖約を侍中、太尉、尚書令とし、許柳を丹楊尹、馬雄を左衛将軍、祖渙を驍騎将軍とした。また、先の司馬宗の誅殺に連座して中央の職を解かれ降格させられていた弋陽王司馬羕が蘇峻の功を讃えて参台すると、爵位を西陽王に戻して太宰、録尚書事に復させた。軍事行動においては呉国内史庾冰を攻めさせ、庾冰は会稽の王舒の元へと敗走した。
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