暴政
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孫晧は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御苑を開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されたこともあるという。やがて粗暴で驕慢な人物となり、かつ小心で猜疑心が強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。濮陽興と張布は孫晧を皇帝にしたことを後悔したが、そのことを孫晧に讒言する者があり、11月になって濮陽興と張布は誅殺された。 12月、孫休を定陵に葬った。滕皇后の父の滕牧を高密侯に封じ、母方の叔父の何洪ら3名も列侯に叙せられた。 この年に、魏は交阯太守を任命して交阯郡に派遣した。司馬昭が魏の相国となり、呉の降将である徐紹と孫彧を使者として呉に送り、降伏を勧告させた。 甘露元年(265年)3月、孫晧は光禄大夫の紀陟と五宮中郎将の弘璆とを魏への返礼の使者に送り、徐紹と孫彧とに同行させた。しかし、途中で徐紹が魏を賞讃しているという話を耳にしたので、徐紹を濡須で呼び戻して殺害し、一家眷属を建安に強制移住させた。 秋7月、孫晧は景皇后の朱氏を迫害し、死においやった。人々は死の場所や葬儀のやり方から朱氏の死が病死でないことを知り、悲しんだという。また、孫晧は孫休の4人の子を捕らえて呉の小城に閉じ込め、年長の2人を殺害した。 9月、西陵督である歩闡の上表により、武昌へ遷都した。御史大夫の丁固と右将軍の諸葛靚が建業の守備にあたった。 魏への使者となった紀陟と弘璆は洛陽に到着したが、ちょうど司馬昭が死去していたところであったので、11月に魏より送り返された。 孫晧は武昌に至ると、大赦を実行した。零陵郡の南部を分割して始安郡を設置し、桂陽郡の南部を分割して始興郡を設置した。 12月、魏が禅譲により滅亡し、晋が成立した。 宝鼎元年(266年)正月、司馬昭の弔問のため、大鴻臚の張儼と五官中郎将の丁忠を晋への使者として送った。張儼はその帰途で病没した。丁忠は晋が防戦の備えを怠っているとして、孫晧に弋陽への侵攻を勧めた。孫晧はこの軍事行動について群臣らの評議にかけたところ、鎮西大将軍の陸凱が反対し、車騎将軍の劉纂が賛成した。孫晧は内心では劉纂の意見を取り上げたいと思っていたが、躊躇しているうちにそのまま沙汰やみとなった。 8月、陸凱を左丞相に、万彧を右丞相に任命した。 冬10月、永安の山賊の施但らが数千人の徒党を集めて、孫晧の異母弟である永安侯孫謙を脅迫して烏程まで進み、孫和の陵にあった楽器や曲蓋を奪い取った。施但らが建業にまで至ったときは徒党の数は数万人に膨れ上がっていた。丁固と諸葛靚は施但らと牛屯で激しく戦い、施但らを敗走させ、孫謙の身柄を取り戻したが、孫謙は自害した。 12月、孫晧は都を建業に戻し、衛将軍の滕牧を武昌の守備に置いた。 宝鼎2年(267年)春、大赦を実行した。右丞相の万彧が長江を遡り巴丘の守備に就いた。 夏6月、顕明宮を建てた。 冬12月、孫晧は顕明宮に移ってここに起居した。 宝鼎3年(268年)春2月、左右の御史大夫であった丁固と孟宗を、それぞれ司空と司徒に任命した。 秋9月、孫晧は東関に出兵し、丁奉は合肥に軍を進めた。 この年、交州刺史の劉俊・前部督の修則・荊州刺史の顧容らを交阯に侵攻させたが、晋の将の毛炅・董元のために敗北し、劉俊・修則の2人は戦死した。兵は顧容が収めて合浦に帰還した。 建衡元年(269年)春正月、子の孫瑾を太子に立て、他の2人を淮陽王と東平王に封じた。冬10月、建衡と改元し、大赦を行った。11月、左丞相の陸凱が死去した。 監軍の虞汜、威南将軍の薛珝、蒼梧太守の陶璜らが荊州より、監軍の李勗、督軍の徐存らが建安から海路で進軍し、合浦で集結し交阯を攻撃しようとした。 建衡2年(270年)春、万彧が建業に帰還した。李勗は建安の道が通行困難となったため、導将の馮斐を殺害し、軍を引き揚げさせた。 夏4月、左大司馬の施績が死去した。 殿中列将の何定が「少府の李勗が馮斐をみだりに殺し、勝手に軍を帰還させた」と讒言した。李勗と徐存の一家眷属は皆殺しとなった。 秋9月、何定の将兵5000人が長江を遡り、夏口で巻狩りを行った。都督の孫秀が出奔し晋に亡命した。 この年、大赦が実行された。 建衡3年(271年)春正月晦、孫晧が大勢を引き連れて華里にまで進んだ。孫晧の母や妃妾まで皆同行した。東観令の華覈らが必死で止めたため、引き返した。 この年、虞汜と陶璜は交阯を陥落させ、晋の置いた守将らを皆斬るか生け捕りにし、九真郡と日南郡は皆呉に服属した。大赦が実行された。交阯郡が分割され新昌郡が設置された。諸将は扶厳を破り、武平郡を設置した。武昌督であった范慎を太尉に任命した。右大司馬の丁奉と司空の孟仁(孟宗)が死去した。 鳳凰元年(272年)秋8月、西陵督の歩闡を召還しようとしたが、歩闡は命令を聞かず、城を挙げて晋に降伏した。楽郷督の陸抗が派遣され歩闡の城を包囲した。歩闡の配下は降参し、歩闡とその計画に加わった者数十人は皆三族皆殺しとなった。大赦が実行された。 この年、右丞相の万彧が譴責を受けて憂死し、その子弟が廬陵に流された。何定の悪事が発覚し、誅殺された。孫晧はその悪事が張布に似ているとし、名を何布と改めさせた。 鳳凰2年(273年)春3月、陸抗を大司馬に任命した。司徒の丁固が死去した。 秋9月、淮陽王を魯王に、東平王を斉王に改封した。陳留王・章陵王ら9人の王を新たに封じ、王の数は11となった。それぞれの王に3000の兵士を率いさせた。 孫晧の愛妾に人を市場にやって民衆の財貨を強奪させた者がいた。司市中郎将の陳声は孫晧の寵愛を受けていたが、この者を捕らえ法に従って処刑した。愛妾が孫晧にそのことを訴えると、孫晧は激怒し、別のことにかこつけて陳声を捕らえ、焼いた鋸で首を斬りおとし、身体を四望山に捨てさせた。 この年、太尉の范慎が死去した。 鳳凰3年(274年)、会稽郡で、孫晧は既に亡くなっており、章安侯孫奮が天子になるであろうという妖言が流行った。臨海太守の奚熙は会稽太守の郭誕に書を送り、国政を非難した。郭誕は奚熙の書については報告したが、妖言については報告しなかったため、建安郡に送られ船作りに従事させられた。三郡督の何植を送り奚熙を捕らえさせようとしたが、奚熙は兵士を集めて守りを固め、通路を絶った。奚熙は配下の兵士に殺され、首を建業に送られ、三族皆殺しとなった。 秋7月、使者25人を派遣し、分かれてそれぞれの州や郡に入り、逃亡者を摘発して都に送らせた。大司馬の陸抗が死去した。 天冊元年(275年)、呉郡において土中から銀が掘り出された。長さは1尺、幅が3寸で、その上に年月などの字が刻まれていた。この報告を受けて、大赦を行い、天冊と改元された。 天璽元年(276年)、呉郡から報告があり、臨平湖が通じ、その岸辺で石の函が発見され、その中から皇帝と刻まれた小石が見つかったという報告があった。そこで玉璽と改元し、大赦を行った。 会稽太守の車浚・湘東太守の張詠が算緡を納めていないという理由で、中央から派遣された役人により斬首となり、首を諸郡に回された。 秋8月、京下督の孫楷が晋に降伏した。 鄱陽から歴陽山の石が字の形となり、「楚は九州の渚で呉は九州の都。揚州の士が天子となり、四世にして治まり、太平の世が始まる」と読めると報告があった。また、呉興の陽羡山に中空になった岩があり、十余丈の大きさがあり、石室と呼ばれていたが、岩の各所に瑞祥が表れている、という報告があった。そして、司徒の董朝と太常の周処が陽羡県に派遣され、国山として封禅を行った。明年から天紀を改元することが決められ、岩に表れた文字に対応するためという理由で大赦が実行された。 天紀元年(277年)夏、夏口督の孫慎が江夏から汝南に軍を進め、焼討ちをかけて住民を略奪して帰った。騶子出身の張俶が誣告や讒言により昇進して司直中郎将となり、侯に封じられるなど孫晧の寵愛を受けていたが、この年に、それまでの悪事が発覚し誅殺された。 天紀2年(278年)秋7月、成紀王・宣威王など11王が立てられ、王ごとに3000人の兵士が与えられ、大赦が実行された。 天紀3年(279年)夏、交州で郭馬が反乱を起こし、その影響は交州・広州の各地に及んだ。8月、軍師の張悌を丞相に任命し、牛渚督の何植を司徒に任命した。執金吾の滕脩は司空に任命されるところであったが、仮節・鎮南将軍・広州牧に職が改められ、1万の兵士を率いて東の道から郭馬の征伐に向かった。滕脩が始興で郭馬軍の王族の軍に阻まれた隙に、郭馬はますます勢力を広げたので、徐陵督の陶濬が7000人を率いて西の道を進み、さらに交州牧の陶璜に対して、その配下の軍勢と合浦・鬱林の諸郡の兵士を率いて、東西の両軍と共に郭馬を討つことを命じた。 高さ一丈ほどの鬼目菜が工匠の黄耇の家に生え、また高さ四尺の買菜が工匠の呉平の家に生えた。東観の役人は鬼目菜を芝草、買菜を平虜草と判定した。黄耇は侍芝郎、呉平は平虜郎に任命され、それぞれが銀印青綬を賜った。
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