陶璜とは? わかりやすく解説

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陶璜Tao Huang

トウコウ
タウクワウ

(?~?)
晋使持節都督交州諸軍事・冠軍将軍交州牧・宛陵

字は世英。丹楊郡秣陵の人。呉の交州刺史陶基の子

陶璜は呉に仕えて高官歴任した孫晧時代交阯太守孫諝汚職手を染めて暴政布き百姓らに嫌われていた。察戦の鄧荀が来たときには勝手に孔雀三千頭を調達して秣陵送ろうとしたので、人々はみな遠方への夫役苦しみ謀叛気持ち持った。郡吏呂興孫諝・鄧荀を殺して晋に帰属した。晋の武帝呂興安南将軍交阯太守任じたが、呂興ほどなく功曹の統に殺されたので、武帝改めて爨谷を交阯太守とした。爨谷が死去すると、今度馬融その後任とした。

馬融病没すると、南中監軍霍弋楊稷その後任として派遣将軍毛炅九真太守董元牙門孟幹・孟通・李松王業・爨能らを付けて、蜀から交阯出向させ、古城において呉軍撃破大都脩則交州刺史劉俊を斬首した。そこで呉は虞汜監軍薛珝を威南将軍大都督、陶璜を蒼梧太守任じ楊稷を防がせ、分水戦わせた。陶璜は敗走し合浦籠り配下将軍二人失った

薛珝腹を立てて賊軍討伐する上表しておきながら将帥二人も失うとはな。この責任はだれが取るのだ?」と言うと、陶璜が「部下作戦意図理解できず、諸将命令を守らなかったから負けたのです」と答えたので、薛珝はますます怒って撤退しようとした。陶璜は兵士数百人を率いて董元夜襲をかけ、奪った宝物を船に載せて帰ってきた薛珝はようやく陳謝し、陶璜を前部督に任命して交州経営させた。

陶璜は海路取って不意を突こう考え、まっすぐ交阯向かい董元対峙した。諸将交戦望んだが、陶璜は敵陣防壁の裏側に伏兵潜んでいることを疑い、長戟を持たせた部隊後詰めをさせた。董元は少し戦っただけで逃げるふりをし、陶璜が追走すると、案の定伏兵飛びだしてきた。長戟部隊がこれを逆襲し董元らを大破することができた。前回手に入れた宝船錦織数千匹を載せ、扶厳の賊帥奇に贈ると、奇は一万余り率いて陶璜を支援した

董元配下勇将解系董元一緒に城を守っていたが、陶璜はその弟解象を誘降して解系宛ての手紙を書かせ、また解象を陶璜の小型車載せ鼓吹先導通行させた。董元らは「解象でさえこれほど厚遇される)なら、解系はきっと立ち去るだろう」と言い、とうとう解系殺してしまった。陶璜・薛珝はついに交阯陥落させ、呉は陶璜を交州刺史任用した。

陶璜は策略持ち主で、困窮する者のために駆けずりまわり施し好んだので人々の心をよくつかんだ滕脩はしばし南方賊徒討伐したが、制御することができなかった。陶璜が「南方では我が国の塩や頼りにしておりますので、市場への供給遮断すれば、みな(武器を)壊して農具作るでありましょう。そうして二年が経てば一度戦いで滅ぼすことができましょうと言うので、滕脩がそれを採用したところ、賊徒打ち破ることができたのである

もともと霍弋楊稷毛炅らを派遣したとき、「もし賊軍包囲され百日未満降服した者は家族誅殺する。もし百日上して救援軍到着しなかったら自身罪責引き受けようと言い含めていた。楊稷らは百日経たずして食糧が底を突き降服申し出たが、陶璜はそれを許さず食糧与えてまで守らせた。諸将諫めると、陶璜は「霍弋はすでに死亡しており、楊稷らを救援することができない決まった。まず期日満たし、それから降服受け入れてやれば、彼らも罪を被ることがなく、我らは義を立てることになる。内向きには百姓への教育になり、外向きには隣国懐柔することになるのだ。結構なことではないか!」と言った楊稷らは期日になって食糧が底を突き救援軍到着しなかったので、(陶璜は)やっと受け入れた

脩則毛炅殺されたあと、息子脩允が陶璜の南征従軍していた。城が陥落すると、脩允復讐したい申し出たが、陶璜は許可しなかった。毛炅が陶璜を襲撃しよう企てたのが発覚し、陶璜は彼を逮捕して「晋の賊徒め!」と罵倒した毛炅は声を荒げて「呉のよ!賊徒とは誰のことだ?」と言った脩允彼の腹を割いて「まだ悪さを働くか?」と言うと毛炅はそれでも「私の願いお前ら孫晧を殺すことだ。お前の父親はなぜのために死んだのか!」と罵りつづけた

陶璜は捕らえた楊稷らを(都へ)護送したが、楊稷合浦発病して死んだ孟幹・爨能・李松らが建業到着すると、孫晧は彼らを殺そうとした。ある人が「孟幹らは職務忠実ですから、赦免してやって国境敵将抱き込む手本にしましょう」と勧めたので、孫晧はその意見聞き入れて孟幹らを臨海へ住まわせた。

孟幹らは北方帰りたい願っていたので、はるか東方へと移住させられるのが心配になった。そこで呉の人々が蜀の竹製の弩を愛用していることに目を付け、我々はそれを巧く作りますよと言上した。孫晧は(彼らを都に留め置いて(弩作りの)部署を作らせたが、のちに孟幹京都逃げ帰り李松・爨能らは孫晧処刑された。孟幹が呉討伐計略陳述したので、武帝手厚い褒美与えて日南太守取り立てた。かつて楊稷交州刺史毛炅交阯太守になったとき、印綬届かぬうちに敗北していたので、楊稷には交州刺史官職追贈し、毛炅李松・爨能の息子たち関内侯取り立てた

九真郡の功曹祚が郡城を抱えたまま晋に帰属したので、陶璜は部将派遣して攻撃させたが、勝つことができなかった。祚の舅黎晃が(陶璜軍に)従軍していたので、祚に降服勧告をさせると、祚は「舅どのは呉の部将祚は晋の臣下です。ただ武力だけが運命を知るのです」と答えた季節変わってようやく陥落した

孫晧は陶璜を使持節都督交州諸軍事・前将軍交州牧とした。武平九徳新昌険阻な土地であり、異民族の獠族は勇敢で、何世代ものあい服従しなかった。陶璜はこれを征討して三郡および九真属国三十余り開設した孫晧は陶璜を中央徴し返して武昌都督とし、合浦太守脩允後任にしようとしたが、陶璜の留任求め人々千人単位上ったため、陶璜を交州に戻らせた。

孫晧は晋に降服すると、直筆の手紙を息子の陶融に持たせて陶璜に帰順せよと命じた。陶璜は何日ものあいだ涙を流し使者印綬預けて洛陽へ参詣させた。武帝詔勅により彼をもとの官職戻して宛陵侯に封じ、のちに改め冠軍将軍とした。

呉が平定されたのち、州兵や郡兵はどこでも削減されていった。陶璜は言上した。「交州荒廃して南方とは断絶しておりますが、通訳重ねて山海向こうから連帯を望む者もございます日南郡交州から海路千里余り離れているのに、林邑とはわずか七百里しか離れておりません。異民族総帥范熊は何世代盗賊働いて王を自称し、たびたび百姓どもを苦しめております。そのうえ扶南とも隣接して民族雑多一味同士助けあい、要害籠って服従いたしません。かつて呉に隷属していたときもしばしば侵害働き、郡県を攻め破り長吏殺害いたしました。」

「臣は愚鈍ありながら故国登用され十年余り南方守っておりました。たびたび征討して首魁斬首いたしましたが、山深い洞窟隠れたりして逃げ残った者もございました。臣の統率していた兵卒はもともと七千人余りでしたが、南方蒸し暑く空気には毒が多く、そのうえ長年征討により次々と死亡し残っているのは二千四百二十人です。」

「いま四海一統されて不服を抱く者はなく、武器片付けて礼楽務めとすべきではありますが、この州の人々は義を知る者が少なく安楽さを嫌って混乱好んでおります。また広州南岸六千里余りにもなり、服従せぬ者ども五万余り桂林自立する者どももまた一万戸もありますが、官の役務服従する者はわずかに五千余りです。この二つの州は唇歯の関係にあり、ただ兵力によってのみ鎮められるのです。また寧州の興古とは上流隣接し交阯郡から千六百里も離れておりますが、水路陸路ともに通じていて互い守りあう関係です。州兵削減することにより隙を見せてはなりません。」

そもそも戦塵災い非常事態から起こることです。臣は亡国生き残り過ぎず主張には見るべき価値もございませんが、神聖な御恩広く手厚く、忝なくもご抜擢賜り、この罪過晴らして地方任務授けてくださいました。屈辱免れて恩寵服し、目をこすって見方改め生命投げだして御恩報いたい誓い立てておりますので、現場で見聞きしたことを謹んで陳述する次第でございます。」

また言う。「合浦郡土地痩せていて農業行われず百姓どもは真珠取り生計立てており、商人往来して真珠食糧交換するでございます呉の時代には百姓どもが勝手に良質真珠売り払ってしまうことを恐れ、非常に厳し真珠規制がございましたが、規制が行き渡ると人々飢え苦しむことになりました。また献上される品物玉石混交で、いつも規定量を満たすことができません。そこで上物真珠三分の二、それに次ぐ真珠三分の一献上することとし粗悪品一掃してくださいませ十月から二月いっぱいまでは上物真珠取れ時期ではありませんので、昔のように商人たち往来ご許可してください。」

南方にあること三十年、威信恩恵風俗異なる者たちに顕著であった卒去したとき、州内こぞって号泣し慈悲深い父親失ったようであった朝廷では員外散騎常侍吾彦後任とし、吾彦卒去するとまた員外散騎常侍の顧秘を後任とし、顧秘が卒去すると州民が顧秘の息子顧参に州政強要した。顧参がほどなく卒去すると弟の顧寿は刺史を招こうとした州民納得せず、強要され州政担った。顧寿は長史胡肇らを殺し、また帳下督碩を殺そうとしたが、碩は逃げ延びて顧寿討伐の兵を起こし、これを捕らえて顧寿の母に預け鴆毒で殺させた。碩は陶璜の子である蒼梧太守陶威を招いて刺史を領させた。陶威は職務にあたって百姓の心を大いにつかみ、三年後に卒去した。のちに陶威の弟陶淑、子の陶綏はいずれ交州刺史になった陶基から陶綏までの四世代で交州刺史になった者は五人である。

陶璜の弟陶濬は呉の鎮南大将軍荊州牧、陶濬の弟の陶抗は太子庶子である。陶濬の子陶湮は字を恭之といい、陶湮の弟陶猷は字を恭予といい、ともに有名であった。陶湮は臨海太守黄門侍郎まで昇り、陶猷は宣城内史王導右軍長史となった。陶湮の子陶馥は于湖の県令となった韓晃殺害され廬江太守官職追贈された。陶抗の子陶回には彼自身列伝立てられている。

参照王業 / 王導 / 解系 / 解象 / 霍弋 / 韓晃 / 虞汜 / 胡肇 / 顧参 / 顧寿 / 顧秘 / 吾彦 / 爨谷 / 爨能 / 司馬炎武帝) / 脩允 / 脩則 / 薛珝 / 孫晧 / 孫諝 / 陶威 / 陶湮 / 陶回 / 陶基 / 陶抗 / 陶淑 / 陶濬 / 陶綏 / 陶馥 / 陶猷 / 陶融 / 董元 / 滕脩 / 鄧荀 / 馬融 / 范熊 / 毛炅 / 孟幹 / 孟通 / 楊稷 / 李松 / 祚 / 統 / 劉俊 / 呂興 / 奇 / 碩 / 黎晃 / 于湖県 / 宛陵県 / 合浦郡 / 合浦県 / 九真郡 / 九真属国 / 九徳郡 / 荊州 / 桂林郡 / 建業県 / 呉 / 興古郡 / 交阯郡 / 広州 / 交州 / 古城 / 日南郡 / 蜀 / 晋 / 新昌郡 / 宣城郡 / 蒼梧郡 / 丹楊郡 / 寧州 / 扶厳 / 武昌県 / 扶南 / 武平郡 / 分水 / 秣陵県 / 洛陽県(京都) / 臨海郡 / 林邑 / 廬江郡 / 安南将軍 / 威南将軍 / 右軍長史 / 王 / 牙門将 / 監軍 / 冠軍将軍 / 関内侯 / 県令 / 功曹 / 黄門侍郎 / 散騎常侍 / 察戦 / 刺史 / 使持節 / 前将軍 / 前部督 / 太子庶子 / 内史 / 太守 / 大都督 / 帳下督 / 長史 / 鎮南大将軍 / 都督 / 南中監軍 / 牧 / 列侯 / 員外 / 鼓吹 / 真珠 / 軺車(小型車) / 獠族


陶璜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/17 20:07 UTC 版)

陶 璜(とう こう、? - 290年[注釈 1])は、中国三国時代から西晋にかけての武将。世英揚州丹陽郡秣陵県の人。父は陶基。弟は陶濬・陶抗。子は陶融・陶威・陶淑。孫は陶綏。甥は陶湮・陶猷・陶回。『晋書』57巻に伝がある。

生涯

父と同じく呉に仕え、順調に出世した。

宝鼎3年(268年)11月、孫休の跡を継ぎ即位した孫晧は、大都督修則交州刺史の劉俊らを交州奪還に派兵したが、修則・劉俊が戦死し西晋の楊稷毛炅らに撃退された。

建衡元年(269年)、呉は虞汜を監軍、薛珝を威南将軍・大都督、陶璜を蒼梧太守に任命した上で、再度交州奪還のため派兵した。陶璜らは荊州を経由し、建安郡を経由した監軍の李勗、督軍の徐存らと合浦で落ち合う予定だった。ところが翌建衡2年(270年)、李勗は道案内の馮斐の道程が通行に不利だとして馮斐を殺し、勝手に撤兵してしまった。このため李勗・徐存が家族ともども軍令違反で誅殺されてしまい、陶璜らは単独での戦闘を余儀なくされた。

虞汜・陶璜らの呉軍は、分水で楊稷らの西晋軍と戦ったが敗北し、合浦に退却した。薛珝は怒り、陶璜に対し「お前は自分から賊を討つと上表したのに、二人の将を失った。その責任はどこにあるのか」と追及した。陶璜が「私が思ったことが実行できず、また諸軍も互いに従わなかった。だから敗戦に至ったに過ぎない」と主張したので、薛珝はさらに怒りそのまま撤兵しようとした。しかし陶璜は数百の兵で西晋の九真太守であった董元の陣に夜襲を仕掛け、宝物を略奪して帰還してきた。このため戦果を見た薛珝は陶璜に謝り、前部督に任じて交州を治めさせた。

陶璜は正面からの戦いでは状況が悪いとみて、交阯郡の手前から海路で迂回し、直接九真郡を攻撃する作戦を立てた。董元が伏兵を仕掛け、偽装退却で呉軍を引きずり込もうとしたが、陶璜はあらかじめ長戟の兵を伏兵対策に控えて置いていたため、董元を破ることに成功した。さらに、事前に用意してあった絹数千匹を、扶厳の賊の頭目であった梁奇に与え、梁奇に一万余の軍勢で助けさせた。当時、董元配下の解系[注釈 2]という者が勇将として知られていたが、弟の解象は呉に従っていた。そこで、陶璜は解象をこれ見よがしに傍へ侍らせ、董元の疑心暗鬼を煽り解系を殺害させた。陶璜は見事、九真郡の奪還に成功した。

同じ頃、滕脩が南岸の賊に苦戦していたので、陶璜は「南岸の連中は我々の塩と鉄を頼りにしている。(だから)断じて市場に出してはならない。そうすれば、(武器を)壊して農機具に充てざるを得なくなる。2年もしてから一戦すれば容易に滅ぼすことができるだろう」といった。滕脩は陶璜に従い、ついに賊を破った。その頃ちょうど虞汜が死去したため、陶璜は後任の交州刺史に任命された。

さらに建衡3年(271年)、陶璜率いる呉軍は楊稷・毛炅らの籠もる城を包囲した。既に霍弋は死去しており、西晋軍に援軍のあては無かった。霍弋は事前に楊稷・毛炅らと、百日以内に降伏したら一家をもろとも処刑することと、百日守った上での降伏なら自分が罪を引き受けることを誓約していた。果たして、百日も経たずに西晋軍の兵糧が尽きたため、彼らは降伏を願い出た。陶璜は霍弋と彼らの誓約を聞き及んでいたので、敢えて降伏を許さず、残りの日数分の兵糧を守備側に提供して籠城を続けさせた。配下の者たちが止めるよう諌めたが、陶璜は楊稷・毛炅らの家族を助命させることで、内外に呉の徳を宣伝しようとした。百日後、予定通り楊稷らは降伏した[1]

修則の子の修允は、父が毛炅に処刑されていたために仇討ちを望んだ。しかし陶璜は、毛炅の勇名を惜しみ助命するつもりであったので、これを許さなかった。ところが、毛炅には降伏するつもりは無く、陶璜を襲撃しようとしていたことが発覚した。陶璜が毛炅を捕らえ「晋の賊め」と責めると、毛炅は「呉のめ。何が賊だ」と言い返した。腹を立てた者が生きたまま毛炅の腹を割くと、修允は臓を取り出して「これでもまだ賊が働けるというのか」といった。毛炅はなおも「吾の目的は汝らの孫晧を殺すことだ。汝の父など過去に死んだ狗ではないか」と罵ったが、とうとう処刑された。九真郡では功曹の李祚がなおも抵抗していたが、呉は季節を挟んだ長期戦の末これも攻め落とし、西晋から交州を奪還することに成功した。孫晧は陶璜を、使持節・都督交州諸軍事・前将軍・交州牧とした。さらに陶璜は、長年呉に従わなかった非漢民族も服属させ、武平・九徳・新昌の三郡、及び九真属国の三十余県を設置した。

天紀3年(279年)夏、郭馬広州で叛乱を起こした。同年8月、滕脩が1万の兵士を率いて慌ただしく追討に赴いたが、始興で抵抗を受け先に進めなくなったため、徐陵督であった弟の陶濬が7000人を率いて、陶璜と協力して援軍に赴くことになった。

同年冬、西晋が大軍を動員して呉に侵攻して来た。陶濬が迎え撃つため建業に戻ったが、滕脩と陶璜は引き続き反乱鎮圧にあたった。しかし翌天紀4年(280年)、鎮圧できないまま、孫晧は西晋に降伏した。孫晧は自ら陶璜に手紙を書き、さらに陶璜の子の陶融を西晋への降伏のため派遣した。陶璜は命令を受け取ると数日間涙を流し、使者を派遣して印綬洛陽(西晋の首都)に送った。西晋の司馬炎(武帝)は詔を下して元職に復職させた上で、陶璜を宛陵侯に封じ、さらに冠軍将軍に任命した。

西晋は天下を統一したので、常備軍の大幅な削減に着手した。しかし陶璜は、林邑を始めとする非漢民族の脅威や、また西晋の支配に従わない不服従民の多さなどを挙げ反対した。また、特産品の真珠が徴発されていたが、土地がやせ貧しい広州の住民には貴重な収入源となっていることを指摘し、徴発量を減らすよう上表した。司馬炎は全て聞き入れたという。

陶璜の交州統治は30年におよび、威厳と恩恵を周囲に示した。太熙元年(290年)に陶璜が亡くなると、州を挙げて慟哭の声が起こり、まるで慈悲深い親を亡くした喪中の子供のようであったという。西晋は後任に吾彦を任命した。後、子の陶威・陶淑、孫の陶綏(陶淑の子)も交州刺史となり、陶基から4代で5人の交州刺史、あるいは牧を輩出した。

家系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶基
 
陶璜
 
陶融
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶威
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶淑
 
陶綏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶濬
 
陶湮
 
陶馥
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶猷
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶抗
 
陶回
 
陶汪
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶陋
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶隠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
陶無忌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 呉廷燮『晋方鎮年表』によるものだが、陶璜は270年前後に虞汜の後を継いで交州刺史となり、30年前後も長きに亘って交州を統治したとあるので、没年もしくは統治期間のいずれかが誤っていると思われる。
  2. ^ 司馬倫に殺された解系(同姓同名人物)とは別人。

出典

  1. ^ 華陽国志』によると、落城は王約の寝返りによるものだという。


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