呉の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 18:01 UTC 版)
呉王朝に仕え、初め通江吏に任じられた。 次いで下級武官として大司馬陸抗の配下となり、やがて将軍として取り立てられた。その後、幾度か昇進を重ねて建平太守となった。 272年6月頃、晋の益州刺史王濬は呉の征伐を目論み、蜀の地で軍船の建造を開始した。吾彦は長江上流から流れてくる多数の木屑を見て晋が軍船の建造をしていると察知し、呉帝孫晧に対して「晋は確実に攻呉の計を進めております。建平の兵を増やして要衝の地を塞ぐべきです。建平を下せなくば、敢えて長江を渡る事もないでしょう」と上奏し、守備兵を増員して備えるよう訴えたが、容れられなかった。そこで、吾彦は独断で長江に鉄鎖を張り巡らせて江路を遮断し、防備を固めて敵の襲来に備えた。 同年9月、西陵督歩闡が呉に反旗を翻し、西陵城ごと晋に降伏した。10月、陸抗が西陵奪還の兵を挙げると、吾彦は彼の命に従い、将軍左奕らと共に西陵へ侵攻した。12月、呉軍は歩闡救援の為に到来した晋の荊州刺史楊肇を撃破し、さらに西陵を奪還して歩闡を捕らえ、反乱を鎮圧した。 279年11月、晋軍が6方向より呉征伐を敢行すると、王濬率いる益州軍もまた長江を下り進出を開始した。晋軍の勢いは凄まじく、長江沿岸にある諸城はみな攻略されるか降伏していったが、その中にあって吾彦だけは城を堅守した。晋は大軍でもって攻勢を掛けたが結局攻略する事が出来ず、諦めて軍を三十里後退させ、吾彦の奮戦に敬意を表したという。 280年3月、孫晧が晋に降伏すると、吾彦はこの事実を知った後に開城して降伏した。
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