呉の建国とは? わかりやすく解説

呉の建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:44 UTC 版)

呉 (三国)」の記事における「呉の建国」の解説

220年曹操死去し後継曹丕献帝より禅譲受けて魏の皇帝称した。呉は樊城対岸である襄陽まで兵を進めたが、まもなく魏の曹仁奪い返された。221年劉備は魏に対抗して皇帝名乗り蜀漢建てた。そして劉備敵対することが決定的となった孫権は魏の曹丕に対して臣従し、呉王に封ぜられる。 そして劉備関羽の仇を取り荊州奪い返すべく呉に侵攻してきた。呂蒙関羽殺した後に程なくして病死しており、それに代わって陸遜全軍指揮執り蜀軍弱点をつき大勝した夷陵の戦い)。夷陵の戦い大勝した孫権は、魏に臣従する必要もなくなったため、新しく黄武元号立てて魏から独立した大敗した劉備翌年223年病死しその後劉禅継ぎ諸葛亮政治・軍事全て司るようになったその後蜀漢と呉は再び和睦して魏に対抗するようになり、222年には、魏に3方向から攻められる合肥の戦い)。だが朱桓曹仁破り洞口呉軍曹休張遼臧覇破り疫病流行したため、魏軍退却した224年に魏は再び攻めてきたが、徐盛長江沿岸に偽の城壁築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した226年には呂岱が、それまで服属させていた交州現在のベトナムトンキン周辺)を呉の直轄領組み込み南海貿易の利益を呉が独占することになった一方曹丕死に乗じるため、江夏侵攻したが、高城攻め落とした227年から蜀漢諸葛亮による魏に対す北伐作戦開始される。なお、実質的に両者同盟対等であるが、劉禅皇帝、呉の側は名目上劉備政権を漢王として扱っていたようである。228年周魴偽りの降伏を魏に申し出て曹休を石亭に誘い出した。陸遜朱桓全琮率いて曹休戦い大勝した石亭の戦い)。 229年孫権皇帝即位して元号黄龍改め建業遷都した。蜀漢では、原則論として孫権即位認めるべきではないか同盟破棄すべきとの意見続出したが、諸葛亮説得孫権即位認め改め対等同盟結んだまた、魏を打ち破った後のその支配区分として、徐州豫州幽州青州は呉が、并州涼州冀州兗州蜀漢支配するものとし、司隸函谷関境界線として、東は呉、西は蜀漢占め取り決めかわした幽州は呉にとって飛び地となるが、これは海上からの侵攻想定したものではないかといわれている。その後孫権遼東公孫淵使者送って魏を挟撃ようとした失敗したまた、東の夷洲・亶洲(現在の台湾沖縄諸島)に探索と人を集めさせに衛温諸葛直と兵1万派遣したが、亶洲には辿り着けず、夷洲から数千人の住民連れ帰っただけに終わった231年潘濬命じて武陵蛮を討伐し、3年がかりでこれを鎮圧した234年蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に合肥荊州攻めるが、同盟関係にある蜀両方でもこれを協力するために同時に軍を出した魏軍がことに苦戦し曹叡親征軍を前に撤退三国の間は膠着状態続いた234年から237年諸葛恪陳表顧承らは山越討伐し、彼等帰順させ、彼等の中から6万人新兵徴兵した。孫権236年五銖銭500238年五銖銭1000価値を持つ貨幣発行したが、『三国志』呉主伝の注に引く『江表伝によれば246年廃止した

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