呉の建国
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220年に曹操が死去し、後継の曹丕が献帝より禅譲を受けて魏の皇帝を称した。呉は樊城の対岸である襄陽まで兵を進めたが、まもなく魏の曹仁に奪い返された。221年に劉備は魏に対抗して皇帝を名乗り、蜀漢を建てた。そして劉備と敵対することが決定的となった孫権は魏の曹丕に対して臣従し、呉王に封ぜられる。 そして劉備は関羽の仇を取り荊州を奪い返すべく呉に侵攻してきた。呂蒙は関羽を殺した後に程なくして病死しており、それに代わって陸遜が全軍の指揮を執り、蜀軍の弱点をつき大勝した(夷陵の戦い)。夷陵の戦いで大勝した孫権は、魏に臣従する必要もなくなったため、新しく黄武の元号を立てて魏から独立した。大敗した劉備は翌年の223年に病死し、その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が政治・軍事の全てを司るようになった。 その後、蜀漢と呉は再び和睦して魏に対抗するようになり、222年には、魏に3方向から攻められる(合肥の戦い)。だが朱桓が曹仁を破り、洞口呉軍が曹休・張遼・臧覇を破り、疫病が流行したため、魏軍は退却した。224年に魏は再び攻めてきたが、徐盛が長江沿岸に偽の城壁を築いていたため、これに驚いた魏は戦わずして退却した。 226年には呂岱が、それまで服属させていた交州(現在のベトナムトンキン周辺)を呉の直轄領に組み込み、南海貿易の利益を呉が独占することになった。一方、曹丕の死に乗じるため、江夏に侵攻したが、高城を攻め落とした。 227年から蜀漢の諸葛亮による魏に対する北伐作戦が開始される。なお、実質的に両者の同盟は対等であるが、劉禅は皇帝、呉の側は名目上、劉備政権を漢王として扱っていたようである。228年、周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、曹休を石亭に誘い出した。陸遜は朱桓・全琮を率いて曹休と戦い、大勝した(石亭の戦い)。 229年、孫権は皇帝に即位して元号を黄龍と改め、建業に遷都した。蜀漢では、原則論として孫権の即位を認めるべきではないから同盟を破棄すべきとの意見が続出したが、諸葛亮の説得で孫権の即位を認め、改めて対等同盟を結んだ。また、魏を打ち破った後のその支配区分として、徐州・豫州・幽州・青州は呉が、并州・涼州・冀州・兗州は蜀漢が支配するものとし、司隸は函谷関を境界線として、東は呉、西は蜀漢が占める取り決めをかわした。幽州は呉にとって飛び地となるが、これは海上からの侵攻を想定したものではないかといわれている。その後、孫権は遼東の公孫淵に使者を送って魏を挟撃しようとしたが失敗した。 また、東の夷洲・亶洲(現在の台湾・沖縄諸島)に探索と人を集めさせに衛温・諸葛直と兵1万を派遣したが、亶洲には辿り着けず、夷洲から数千人の住民を連れ帰っただけに終わった。231年、潘濬に命じて武陵蛮を討伐し、3年がかりでこれを鎮圧した。234年、蜀軍との同盟により、諸葛亮の北伐と共に合肥と荊州を攻めるが、同盟関係にある蜀両方でもこれを協力するために同時に軍を出した。魏軍がことに苦戦し、曹叡の親征軍を前に撤退、三国の間は膠着状態が続いた。 234年から237年、諸葛恪・陳表・顧承らは山越を討伐し、彼等を帰順させ、彼等の中から6万人の新兵を徴兵した。孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行したが、『三国志』呉主伝の注に引く『江表伝』によれば246年に廃止した。
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