呉の丞相へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 01:00 UTC 版)
同年に太常へ改任され、醴陵侯に改封された。初代丞相の孫邵が亡くなると、重臣の大半が最長老の張昭を丞相に推薦したが、孫権は顧雍を二代目の丞相に任命した(『三国志』呉志「張昭伝」)。顧雍は孫邵の後を受けて平尚書事にも任命された。 顧雍は丞相になると、公平さを旨とした人事を行ない、自らの感情に左右されることがなかったという。時には、民衆の間に入って意見を求めることもあり、時宜に適した方策があると、すべて孫権に上聞した。建策が用いられたときはすべて孫権の手柄とし、用いられなかったときはそのことを決して他言しなかった。このことから孫権には重んじられたという。公の場で発言するときには言葉や顔つきは穏やかであったが、正しいと思うことは遠慮せず意見した。 あるとき、孫権が政策全般について不都合な点がないかどうか、尋ねたことがあった。張昭は、法令が煩雑で刑罰が重くなっているとの評判があちらこちらから聞かれるため、緩和すべきではないかと提言した。孫権がしばらく黙った後、顧雍に意見を求めたところ、顧雍は「私も張昭殿が聞いたという評判と、同じことを聞いたことがございます」と回答した。このため孫権はしぶしぶ裁判の量刑を緩和したという。 黄龍2年(230年)、顧雍らは上奏し、孫権の次男孫慮に王号を与えることを提案したが、孫権には許諾されなかった。その後、尚書僕射の存某という人物が顧雍と意見を通じて上疏し、孫慮を鎮軍大将軍に任命して出鎮させることを提案した。孫権はこれを受け、孫慮に仮節を与えて開府させ、半州に役所を置かせた。しかし孫慮は嘉禾元年(232年)に若くして死去した(『三国志』呉志「呉主五子伝」)。 嘉禾2年(233年)3月、孫権は先に服属し燕王に封じていた遼東の公孫淵に、九錫と財宝を与えるため太常の張弥・執金吾の許晏・将軍の賀達らを使者に選び、1万の兵を率いさせ海路で遼東に向かわせようとした。呉の朝臣らは顧雍を中心にして挙って反対したが、孫権には聞き入れられなかった(『三国志』呉志「呉主伝」)。 嘉禾年間、孫の顧承が初めて孫権に召し出された。孫権は顧承が評判以上の人物であったことを喜び、顧雍に手紙を送って慶びを述べた上で、騎都尉に任命して羽林兵を指揮させた。 孫権は従女が顧氏の外甥に嫁いでいたことから、宴席に顧雍の一族を招いたことがあった。当時、孫の顧譚が選曹尚書に任命され、孫権に重用されていた。この宴席では孫権の機嫌が非常によかったため、顧譚は酒に酔った勢いで三度立ち上がって舞いを踊り、いつまでも舞を止めようとしなかったという。このため顧雍は腹を立て、翌日に顧譚を呼びつけてその慢心振りを叱りつけた。さらに顧雍が退室を許さず、そのまま壁の方を向いて横寝になったため、顧譚は立ち尽くしたまま2時間経ってから、ようやく退室を許されたという(『江表伝』)。
※この「呉の丞相へ」の解説は、「顧雍」の解説の一部です。
「呉の丞相へ」を含む「顧雍」の記事については、「顧雍」の概要を参照ください。
- 呉の丞相へのページへのリンク