孫邵
字は長緒。北海国の人《孫権伝》。「孫紹」「孫劭」《張昭伝・通鑑・建康実録》とも書かれる。 孫邵は身の丈八尺、孔融の功曹となり、孔融から「廊廟の才(宰相の器)である」と称えられた。江東の劉繇に身を寄せ、孫権が政務を執るようになるとたびたび便宜策を献じ、(朝廷に)貢ぎ物を上納すべきと申し述べた。孫権はすぐさまそれを聞き入れたのである。廬江太守を拝命し、車騎将軍長史に転任した《孫権伝》。孫権が驃騎将軍だったころ、張昭・鄭礼とともに朝廷における儀式を制定した《孫権・張昭伝》。 黄武元年(二二二)九月、魏の曹仁・曹休・曹真らが各方面から攻め寄せたとき、孫権は国内に不服従の異民族を抱えていたため対抗できず、「太子孫登はまだ配偶者がおりませんので夏侯氏のように宗室に加えていただきたく、もしお聞き入れくださるならば孫邵を使者として孫登を入朝させるつもりです」と申し入れている《孫権伝》。 同年十一月《建康実録》、孫権が丞相職を設置しようとしたとき、人々はみな張昭がその任に充てられるべきだと考えたが、孫権は「ただいま職務は多忙であり、担当者の職責は重いため、(丞相への任命は)彼を優遇することにならない」と述べ、孫邵を丞相に任じた《張昭伝》。威遠将軍を兼務し、陽羨侯に封ぜられた《孫権伝》。 『建康実録』では曹仁らの侵入を建安二十八年(二二三)のこととし、同年、孫権は呉王に登って黄武と改元したとするが、おそらく年数に誤りがある。 二年四月、大将軍陸遜らとともに帝位へ登るよう求めたが、孫権は聞き入れなかった《建康実録》。張温・曁豔がその仕事ぶりについて(弾劾の)奏上をしたので、孫邵は官位を退いて処罰を請うたが、孫権は大目に見てやって復職させた《孫権伝》。 このとき陸遜は輔国将軍であり、大将軍には就任していなかった《陸遜伝》。『建康実録』の誤り。 黄武四年(二二五)夏五月、孫邵は六十三歳で卒去し、粛侯と諡された《孫権伝・建康実録》。丞相職は顧雍が後任した《顧雍伝》。 【参照】曁豔 / 顧雍 / 孔融 / 曹休 / 曹真 / 曹仁 / 孫権 / 孫登 / 張温 / 張昭 / 鄭礼 / 陸遜 / 劉繇 / 魏 / 江東 / 北海国 / 陽羨県 / 廬江郡 / 威遠将軍 / 侯 / 功曹 / 車騎将軍 / 粛侯 / 太守 / 大将軍 / 長史 / 驃騎将軍 / 諡 / 廊廟才 |
孫邵
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孫邵 | |
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呉 丞相・威遠将軍・陽羡侯 | |
出生 | 延熹6年(163年) 青州北海郡 |
死去 | 黄武4年(225年)5月 |
拼音 | Sūn Shào |
字 | 長緒 |
諡号 | 粛侯[1] |
主君 | 孔融→劉繇→孫権 |
孫 邵(そん しょう)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は長緒。青州北海郡出身。呉の初代丞相。
生涯
身長は8尺あったと伝わる。孔融から功曹に採り立てられ、劉繇に従い江東へ下った。その後、孫権に仕えて廬江太守・長史などを歴任し、よく外交政策を提言した。黄武元年(221年)、張昭を押し退けて初代丞相となり、威遠将軍・陽羡侯となった。一時張温と曁艶に讒言され辞意を表明したが、孫権の許しにより復職した。
黄武4年(225年)夏5月、63歳で没した。後任には顧雍が任命された[2]。
呉の初代丞相を務めたほどの人物でありながら、『三国志』呉志には伝が立てられておらず、詳細な事績は呉主(孫権)伝において裴松之が引用した『呉録』に記されているのみである。これは、陳寿の書いた『三国志』呉志 が韋昭らの書いた『呉書』に基づいているからだとされており、その韋昭が孫邵と折り合いの悪い張恵恕(張温)の派閥に属していたからであると、同じく裴松之が引用した『志林』において、著者の虞喜の疑問に答える形で劉声叔が述べている。
小説『三国志演義』には登場しない。
脚注
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