夷陵の戦いとは? わかりやすく解説

夷陵の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/28 10:23 UTC 版)

夷陵の戦い(いりょうのたたかい、中国語: 夷陵之戰拼音: Yílíng zhī zhàn又は猇亭之戰)は、中国三国時代222年に行われた、三峡における蜀漢皇帝劉備が指揮を執る蜀漢軍と、大都督陸遜が指揮を執る呉軍との間の戦いである。戦場となったのは白帝城から夷道までの三峡全域となるが、『三国志演義』に記された決戦場に因んで「夷陵の戦い」と称される。「宜都の役」ともいう。




「夷陵の戦い」の続きの解説一覧

夷陵(猇亭)の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)

劉備」の記事における「夷陵猇亭)の戦い」の解説

劉備曹操死んだ事を聞く弔問使者韓冉遣わせて、蜀錦曹丕貢献した曹丕劉備曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史命じた建安25年220年)に曹操嫡子曹丕後漢献帝から帝位禅譲受けた。これに対抗して蜀の群臣は、建安26年221年)に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀の地に作られ漢王朝であるため、前漢西漢)、後漢東漢)と区別し蜀漢季漢)ともいう。即位反対した費詩左遷された。 劉備派遣した使者韓冉病気称して上庸より先へは行かず劉備弔問の書は上庸から曹丕の元まで届いたという。その返答得た劉備は自ら帝を称した。こうして、劉備皇帝即位したが、同年6月張飛部下張達范彊によって殺害された。張達范彊は、その首を持って長江下って孫権の下へ逃亡した。その報告使者訪れると発言する前に劉備は「ああ、飛が死んだ」と、死を嘆いた劉備は呉を討伐ようとしたとき、人をやって李意其迎えた李意其が来ると礼を尽くして敬い出兵吉凶尋ねた李意其はこれに答えず、紙と筆を求めて兵・馬武器の絵を数十描きあげると、すぐさま一枚一枚これを破り捨て、また大きな身体の人物の絵を描き地面掘ってそれを地に埋めて立ち去った劉備はたいへん不快がったという。秦宓天の与え時期からいって必ず勝利得られない説いた廉で、獄に幽閉されたが、後に釈放された。 劉備章武元年221年)、孫権対す報復として趙雲諫言押し切って親征(夷陵の戦い)を行った初めのうちは呉軍軽快撃ち破りながら進軍、呉は荊州拠点であった江陵背後に残すまでに追い詰められた。また、武陵の部従事である樊伷異民族の者たちに誘いをかけ、武陵郡挙げて劉備帰属しようと企てた。しかし、翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜火計策に嵌り大敗し孫桓は、敗走する劉備追って、夔城(きじょう)に通じる道を断ちその道要所要所閉鎖した劉備は、山中をたどり険害乗り越えてやっとのことで脱出すると、憤り嘆息して「私が昔孫権頼りに(呉の)京城(都、首都の意)に行った際には、孫桓まだ子であったのに、その孫桓に今私がこのように追いつめられるとは」と言った。そして白帝城逃げ込み、ここに永安宮造営し崩御するまで滞在した孫権劉備白帝に留まっていると聞き使者派遣して和睦請うた。劉備はこれを許可し宗瑋費禕らをやって返事をさせた。

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夷陵の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)

諸葛亮」の記事における「夷陵の戦い」の解説

その後劉備曹操勝利して漢中領有したが、荊州孫権奪われ荊州留守をしていた関羽捕らえられ斬殺された。 劉備養子である劉封孟達申儀の裏切りにより曹操軍敗走し成都戻ってくると、劉備劉封関羽援軍に行かなかった事と孟達軍楽隊没収した事を責めた諸葛亮劉封剛勇さは劉備死後制御し難くなるだろうという理由から、この際劉封を除くように進言した。劉備はその提案従い劉封自殺させた。 建安25年220年)には曹操死去した翌年劉備成都で漢帝を称して即位して蜀漢を建て、諸葛亮丞相録尚書事となった一方曹操の子 曹丕遂に後漢献帝より禅譲受けて魏王朝を建てた劉備が呉へ進軍計画し、この戦い準備段階張飛部下殺されるという事件が起こり諸葛亮張飛就いていた司隷校尉兼務する。この戦い最初順調に行き途中孫権和睦行おうとしたが、劉備はそれを聞かず陸遜作戦にはまり大敗終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後諸葛亮は「法孝直生きていれば、主上劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた劉備失意から病気重くなり、逃げ込んだ白帝城章武3年223年)に崩御した。崩御にあたり劉備諸葛亮に対して「そなたの才能曹丕10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子劉禅)が補佐する足り人物であれば補佐して欲しい。もし我が子才能なければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と李厳と共に事後託した。これに対し諸葛亮は、涙を流して股肱の臣としての忠誠誓ったまた、劉備死に際して諸葛亮向かい馬謖言葉だけで実力伴わないから重要な仕事任せてはいけない」と言い残した(「馬謖伝」)。

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夷陵の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:37 UTC 版)

陸遜」の記事における「夷陵の戦い」の解説

黄武元年222年)、蜀(蜀漢)を興し自ら皇帝となった劉備関羽復讐荊州奪還のために呉との国境地帯侵攻してきた。陸遜孫権により大都督任じられ朱然潘璋宋謙韓当徐盛鮮于丹孫桓5万の軍の指揮を執って劉備軍対峙した。諸将は古い軍歴を誇る宿将であったり、宗室連なる身分であったしたため陸遜侮るような態度をとり、陸遜臆病者揶揄したという。しかし、陸遜は剣に手をかけて軍令遵守させた。 「自分はただの書生であったが、主上から命令受けている。国家諸君屈して相い承望させている理由は、僕に尺寸称えるべきがあり、辱を忍んで重責負えるからなのだ。各々がその職事在ってどうして復た辞退できよう一方孫権の手紙には、夷陵重要性述べ劉備戦術的な失敗から、あまり心配する要はない、と書いたという。また、軍がそのような状況であってもなお、発生した騒動のことを報告してこなかった。この時、孫桓夷道において敵に包囲されたときも、孫桓信じて救援に赴かなかったため、孫桓恨まれたという。劉備盛んに呉軍挑発したが、陸遜伏兵を見破りそれに応じなかった。劉備軍疲弊見て取った陸遜反撃転じ火攻めなどで攻撃し退路断って蜀軍壊滅させ、劉備白帝城敗走させた(夷陵の戦い)。このときになって初め諸将陸遜信頼しまた、窮地脱した孫桓陸遜智謀深ささとって畏敬の念表した。後に孫権諸将勝手な振る舞い知って陸遜召見した際は「なぜ報告しなかったのか」と問い、「主上の恩を受け、実際能力より重大任務を背負う事になりました。まして諸将は国を支え功労者です。臣は藺相如寇恂のような人を慕い国事遂げようとする者であります」と答えた孫権はこの言葉気に入り陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。 劉備白帝城とどまり本拠移したため、徐盛潘璋宋謙孫権上奏し、劉備捕えるため白帝城攻撃する事を求めた。このことについて陸遜孫権意見求められると、慎重論主張していた朱然駱統意見同意示し、魏の曹丕表向き援軍称して軍を進めてきているが、実は呉を攻撃する事を企んでいるから、それに備えるため軍を撤退させることを求めた。 まもなく曹丕は呉への攻撃意思示し江陵など3方面から攻撃しかけてきた。劉備陸遜手紙送り、蜀から援軍江陵に送ることを提案したが、呉蜀の国交回復したばかりであることと、蜀軍敗北疲れきっており、国力回復努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという。

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