夷陵の戦い
夷陵(猇亭)の戦い
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劉備は曹操が死んだ事を聞くと弔問の使者韓冉を遣わせて、蜀錦を曹丕に貢献した。曹丕は劉備が曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた。 建安25年(220年)に曹操の嫡子・曹丕が後漢の献帝から帝位の禅譲を受けた。これに対抗して蜀の群臣は、建安26年(221年)に劉備を漢の皇帝に推戴した。蜀の地に作られた漢王朝であるため、前漢(西漢)、後漢(東漢)と区別し、蜀漢(季漢)ともいう。即位に反対した費詩は左遷された。 劉備が派遣した使者韓冉は病気と称して上庸より先へは行かず、劉備の弔問の書は上庸から曹丕の元まで届いたという。その返答を得た劉備は自ら帝を称した。こうして、劉備は皇帝に即位したが、同年6月、張飛が部下の張達と范彊によって殺害された。張達と范彊は、その首を持って長江を下って孫権の下へ逃亡した。その報告の使者が訪れると発言する前に劉備は「ああ、飛が死んだ」と、死を嘆いた。 劉備は呉を討伐しようとしたとき、人をやって李意其を迎えた。李意其が来ると礼を尽くして敬い、出兵の吉凶を尋ねた。李意其はこれに答えず、紙と筆を求めて、兵・馬・武器の絵を数十枚描きあげると、すぐさま一枚一枚これを破り捨て、また大きな身体の人物の絵を描き、地面を掘ってそれを地に埋めて立ち去った。劉備はたいへん不快がったという。秦宓は天の与える時期からいって必ず勝利は得られないと説いた廉で、獄に幽閉されたが、後に釈放された。 劉備は章武元年(221年)、孫権に対する報復として趙雲の諫言を押し切って親征(夷陵の戦い)を行った。初めのうちは呉軍を軽快に撃ち破りながら進軍、呉は荊州の拠点であった江陵を背後に残すまでに追い詰められた。また、武陵の部従事である樊伷が異民族の者たちに誘いをかけ、武陵郡を挙げて劉備に帰属しようと企てた。しかし、翌222年夏、蜀漢軍は夷陵にて陸遜の火計策に嵌り大敗し、孫桓は、敗走する劉備を追って、夔城(きじょう)に通じる道を断ち、その道の要所要所を閉鎖した。劉備は、山中をたどり険害を乗り越えて、やっとのことで脱出すると、憤り嘆息して「私が昔孫権を頼りに(呉の)京城(都、首都の意)に行った際には、孫桓はまだ子供であったのに、その孫桓に今私がこのように追いつめられるとは」と言った。そして白帝城に逃げ込み、ここに永安宮を造営し、崩御するまで滞在した。孫権は劉備が白帝に留まっていると聞き、使者を派遣して和睦を請うた。劉備はこれを許可し宗瑋・費禕らをやって返事をさせた。
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夷陵の戦い
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その後、劉備は曹操に勝利して漢中を領有したが、荊州が孫権に奪われ、荊州の留守をしていた関羽が捕らえられ、斬殺された。 劉備の養子である劉封が孟達、申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかった事と、孟達の軍楽隊を没収した事を責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備の死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。 建安25年(220年)には曹操が死去した。翌年、劉備は成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。一方、曹操の子 曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。 劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法孝直が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた。 劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に崩御した。崩御にあたり劉備は諸葛亮に対して「そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と李厳と共に事後を託した。これに対し、諸葛亮は、涙を流して股肱の臣下としての忠誠を誓った。 また、劉備は死に際して諸葛亮に向かい「馬謖は言葉だけで実力が伴わないから重要な仕事を任せてはいけない」と言い残した(「馬謖伝」)。
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夷陵の戦い
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黄武元年(222年)、蜀(蜀漢)を興し自ら皇帝となった劉備は関羽の復讐と荊州の奪還のために呉との国境地帯に侵攻してきた。陸遜は孫権により大都督に任じられ、朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓ら5万の軍の指揮を執って劉備軍と対峙した。諸将は古い軍歴を誇る宿将であったり、宗室に連なる身分であったりしたため、陸遜を侮るような態度をとり、陸遜を臆病者と揶揄したという。しかし、陸遜は剣に手をかけて軍令を遵守させた。 「自分はただの書生であったが、主上から命令を受けている。国家が諸君を屈して相い承望させている理由は、僕に尺寸の称えるべきがあり、辱を忍んで重責を負えるからなのだ。各々がその職事に在ってどうして復た辞退できよう」 一方、孫権への手紙には、夷陵の重要性を述べ、劉備の戦術的な失敗から、あまり心配する必要はない、と書いたという。また、軍がそのような状況であってもなお、発生した騒動のことを報告してこなかった。この時、孫桓が夷道において敵に包囲されたときも、孫桓を信じて救援に赴かなかったため、孫桓に恨まれたという。劉備は盛んに呉軍を挑発したが、陸遜は伏兵を見破りそれに応じなかった。劉備軍の疲弊を見て取った陸遜は反撃に転じ、火攻めなどで攻撃し、退路を断って蜀軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。このときになって初めて諸将は陸遜を信頼し、また、窮地を脱した孫桓も陸遜の智謀の深さをさとって畏敬の念を表した。後に孫権も諸将の勝手な振る舞いを知って、陸遜を召見した際は「なぜ報告しなかったのか」と問い、「主上の恩を受け、実際の能力より重大任務を背負う事になりました。まして諸将は国を支える功労者です。臣は藺相如・寇恂のような人を慕い、国事を遂げようとする者であります」と答えた。孫権はこの言葉を気に入り、陸遜に輔国将軍を加官し、荊州牧とし、江陵侯に改封した。 劉備は白帝城にとどまり、本拠を移したため、徐盛・潘璋・宋謙は孫権に上奏し、劉備を捕えるため白帝城を攻撃する事を求めた。このことについて陸遜は孫権に意見を求められると、慎重論を主張していた朱然や駱統の意見に同意を示し、魏の曹丕は表向きは援軍と称して軍を進めてきているが、実は呉を攻撃する事を企んでいるから、それに備えるため軍を撤退させることを求めた。 まもなく曹丕は呉への攻撃の意思を示し、江陵など3方面から攻撃をしかけてきた。劉備は陸遜に手紙を送り、蜀から援軍を江陵に送ることを提案したが、呉蜀の国交が回復したばかりであることと、蜀軍は敗北で疲れきっており、国力の回復に努めるべきではないか、と意見し、これを断ったという。
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