両軍の戦力について
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この戦いに参加した呉軍の兵力は、陸遜伝に5万と明記されているが、蜀軍については、本文中には「大軍」とあるだけで明記されていない。『資治通鑑』では蜀軍全軍を4万余人、それに加え蜀に与した荊州の異民族である。 先主伝によると「222年の正月に先主は秭帰に駐留し、呉班と陳式の水軍は夷陵に駐屯した」とあり、また「2月に先主は秭帰から諸将を率いて軍を進めて猇亭に駐営した」と記述されている。文帝紀の註(『魏書』)には、222年の2月8日に「劉備の支党4万人と馬2・3千頭が秭帰を出てきました」という孫権からの上書が載せられている。 また蜀軍の被害は、「斬首したり投降してきたりした者は数万にのぼった」(呉主伝)、「その死者は万を数えた」(陸遜伝)、「陸議(陸遜の元の名)はその兵8万余人を殺し」(劉曄伝註(『傅子』))とある。
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