『傅子』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 15:46 UTC 版)
郭嘉は若い頃から将来を見通す才能があった。天下が乱れようとした時、名前や経歴を隠して密かに英傑たちと交際を結び、俗世間から離れて暮らしていた。そのため多くの人は郭嘉の存在を知らず、有識者の間でだけ名が知られていた。27歳で司徒の役所から招聘を受けた。 曹操が郭嘉に対し、河北において大勢力を有する袁紹への対応を相談したところ、郭嘉は「公には十の勝因があり、袁公には十の敗因があります。それは道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武でございます」と言った。それは即ち、「道」においては面倒な礼・作法に縛られる袁より自然体である曹が優れており、「義」においては天子に逆する袁より奉戴を目指す曹が優れており、「治」においては寛(締りの無さ)を以て寛を救おうとする袁より厳しい曹が優れており、「度」においては猜疑心と血縁で人を用いる袁より才能を重んじる曹が優れており、「謀」においては謀議ばかりして実行しない袁より曹が優れており、「徳」においては上辺を飾る人々が集まる袁より栄達と大義を目指す曹のほうが優れており、「仁」においては目に触れぬ惨状を考慮出来ぬ袁より曹が優れており、「明」においては讒言が蔓延る袁より曹が優れており、「文」においては信賞必罰な曹が袁より優れており、また、「武」においては虚勢と数を頼みにする袁より要点と用兵を頼みにする曹が優れているのである、といった論旨であった。 同時に、袁紹の北進と勢力拡張に合わせ、曹操に呂布を撃破するよう進言した。 劉備を厚遇する曹操に対して、郭嘉はこれを除くことを進言したが、容れられなかった。劉備が背いた後、曹操は郭嘉の言葉に従わなかったことを後悔した。 曹操が劉備を討伐しようと考えたところ、人々は袁紹に背後を襲われることを心配してそれに反対した。しかし郭嘉は、袁紹が決断を欠く人物であるから迅速に行動できないと判断し、劉備を討つことを勧めた。曹操は劉備を攻撃し敗走させたが、果たして袁紹は本格的な出征を行なわず、延津を守っていた于禁に撃退された(于禁伝)。 河北平定後、河北四州の名士を曹操の下に集めたのは、郭嘉の策であったという。 郭嘉の死に際し曹操は「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」と言った。 曹操は子を採り立ててやったとき、荀彧に手紙を送り、再び郭嘉の死を悼むとともに、別の手紙で「郭嘉はわしと軍略を論じる時は、南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。彼の計略は真心から出たものではなく、命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。それほどの心で仕えていたのに、どうして彼の事を忘れる事ができようか」と追慕したという。
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