魏諷
字は子京。沛国、あるいは済陰郡の人《武帝紀・王昶・晋書鄭袤伝》。 群衆を惑わす才能の持ち主で、鄴の都をひっくり返すほどであったため、魏の相国鍾繇に招聘されて西曹掾となった《武帝紀》。その名声は高く、九卿・宰相以下、ことごとく彼に心を寄せて交流を結んだ《劉曄伝》。しかし傅巽・劉曄・劉廙・鄭袤らは、魏諷が反乱を起こすであろうと述べていた《劉表・劉曄・劉廙・晋書鄭袤伝》。 建安二十四年(二一九)九月、太祖(曹操)が漢中に出征して留守のあいだ、魏諷は密かに徒党を組んで義勇の士を集め、長楽衛尉陳禕とともに鄴を襲撃する計画を立てた。その期日になる以前、陳禕が太子(曹丕)に告発したため、魏諷は誅殺された《武帝紀・同集解》。 長楽衛尉は皇后の宮殿長楽宮を守護する官職。おそらく曹皇后を脅迫して宣旨を取り、それを利用して雒陽・鄴を制圧するつもりだったのだろう。伏皇后の生んだ皇太子はすでに毒殺されており、ここにいう太子とは魏王曹操の太子すなわち曹丕を指すものと思われる。 任峻の子任覧は早くから魏諷と距離を取っており《晋書鄭袤伝》、劉廙の弟劉偉、文稷の子文欽も極刑を免れたが《劉廙・毌丘倹伝》、相国鍾繇、中尉楊俊は罷免され《鍾繇・楊俊伝》、張繡の子張泉、王粲の息子二人、宋忠の息子をはじめ、数十人もの連中が罪にかかり処刑された《武帝紀・張繡・王粲・鍾会・尹黙伝》。 あるいは数千人が処刑されたともいう《資治通鑑・後漢紀》。盧弼は、各伝の記載によれば魏諷の忠烈才智は明らかであり、ただ計画が成功しなかったために誹謗されているのだ、と評している《武帝紀集解》。 【参照】王粲 / 鍾繇 / 任峻 / 任覧 / 宋忠 / 曹操 / 曹丕 / 張繡 / 張泉 / 陳禕 / 鄭袤 / 傅巽 / 文欽 / 文稷 / 楊俊 / 劉偉 / 劉廙 / 劉曄 / 漢中郡 / 魏 / 鄴県 / 済陰郡 / 沛国 / 九卿 / 相国 / 西曹掾 / 中尉 / 長楽衛尉 |
魏諷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 14:44 UTC 版)
魏 諷(ぎ ふう、? - 219年)は、中国後漢末期の政治家。字は子京(文献によっては「子慶」)。出身は『三国志』武帝紀の注に引く『世語』(『魏晋世語』)によると、豫州沛国の人。ただし、同じく注に引く『家誠』では兗州済陰郡の人とする。
反乱未遂事件
才知に優れ、鄴で名を知られていた魏諷は、鍾繇に推挙されて曹操に仕え、西曹掾に任命された。官吏としても名声を得たため、多くの高官や名士が魏諷と交際したという。しかし、その一方で少数ながら魏諷の人物を批判する意見もあった。例えば、傅巽は魏諷が必ず謀叛を起こすと予言し(『三国志』劉表伝の注に引く『傅子』)、劉廙も徒党を組むのに熱心で、内実が伴わない人間だと評している(『三国志』劉廙伝の注に引く『劉廙別伝』)。また劉曄は魏諷・孟達を一見するや、いずれも謀反を起こすに違いないと言った。結局その言葉通りとなった(『三国志』劉曄伝の注に引く『傅子』)。
219年夏5月、曹操は遠征していた漢中から撤退し長安に滞在しており、まだ鄴に帰還していなかった。また同年の秋7月、荊州で劉備軍の関羽が曹仁の守る樊城を包囲し、さらに同8月には援軍の于禁が破られ、降伏するという事件が起こっていた。同9月、魏諷は鄴の守りが手薄であることに乗じ、長楽衛尉である陳禕らと共にクーデターを起こそうと企てたが、陳禕が曹丕に密告したために露見し、捕らえられ誅殺された。
この反乱未遂事件では、数十名が共謀罪で処刑されたが、その中には多くの名門・高官の子息がいた。宋忠の子、王粲(建安七子の1人)の二子、劉廙の弟劉偉、張繡の子張泉などがおり、皆誅殺された(『三国志』尹黙伝・王粲伝・張繡伝・劉廙伝)。また、処刑はされなかったものの、連座して処分を受けた者もいた。以前、魏諷を推挙した鍾繇は責任を問われて免職になり(『三国志』武帝紀)、楊俊は反乱を事前に察知できなかった責任を取り、辞任を申し出ている(楊俊伝・徐奕伝)。なお、劉廙が弟のために連座するところであったが、曹操から特別に許され、騎将文稷の子である文欽も疑いをかけられたが、父の功績により誅殺を免れた(『三国志』毌丘倹伝の引く『魏書』より)。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。
魏諷(ぎ ふう、字・子京)
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「蒼天航路」の記事における「魏諷(ぎ ふう、字・子京)」の解説
物語終盤に登場。強い眼力と極度に縮れた毛髪が特徴。養父は曹操の徐州虐殺の生き残りで、赤子の頃から少年時代の孔明によって煽動家としての運命を決定付けられていた。学問の場に赴き「崇息観(すうそくかん)」と呼ばれる独特の呼吸法を基とする思想によって、中央の士大夫層を中心に同志を増やす。関羽の樊城攻略の際に大規模なクーデターを起こすも、計画は事前発覚していたため即鎮圧されて、曹丕によってその首を斬られる。
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