陳式とは? わかりやすく解説

陳式

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 08:22 UTC 版)

陳 式(ちん しょく または ちん しき、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての武将。巴西郡安漢県が大姓の出自で、一族に陳寿が居る。[要出典]華陽国志』や『資治通鑑』では「陳戒」と表記されている。

略歴

時期は定かではないが、劉備に従った。建安23年(218年)、劉備が漢中を攻めた際、陳式は馬鳴閣道の封鎖のために派遣されたが、徐晃に敗れた。夷陵の戦いでは劉備に従い、将軍として呉班と共に水軍を率い夷陵に駐屯した。陸遜の火攻で大敗し、夥しき被害が出る中で彼の部隊は白帝城への帰還に成功した。

建興7年(229年)、諸葛亮が再び北伐の軍を起こした時、陳式は先鋒の総大将として武都陰平を攻略し、その功績を上げた。また、諸葛亮自身は建威を攻略し、陳式と共に当地付近に駐屯していた郭淮を挟撃しようと試みた。郭淮はいったん出撃したがすぐに退却し、そのまま隴西方面から撤退した。諸葛亮・陳式とも、これを追撃しなかったという(陳倉の戦い#第三次北伐)。以降、史書に記述は見当たらない。

三国志演義における陳式

小説『三国志演義』では、漢中攻防戦において黄忠の武将として登場する。夏侯尚の軍勢と戦い捕虜となるが、黄忠も夏侯尚を捕らえたため、数日後に双方の人質交換で無事に黄忠の陣営に戻されている。その後、北伐では魏延と共に軍令を無視して魏軍を追撃する。しかしその結果、大敗して多くの兵を失ったことから、諸葛亮の怒りを買って斬首されることになっている。このように『演義』での陳式は凡将扱いされることが多い。

『演義』の「弘治本(嘉靖本)」では『三国志』の著者陳寿の父、「葉逢春本」では陳寿の祖父とされているが、『晋書』「陳寿伝」にそのような記述はない。「陳寿伝」によると、陳寿の父が馬謖参軍で、馬謖の死刑に連座して髠刑(剃髪し首かせする髠鉗刑が知られている)に処されたとある。『演義』ではこうした話を元に、陳寿の父としての陳式が諸葛亮に処刑されるエピソードが創作されたのであろう。


陳式

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「陳式」の解説

玄徳生前より登場し当初黄忠副将だった。定軍山の戦い夏侯淵戦って敗れ捕虜となるが、夏侯尚との人質交換により蜀陣へ戻る。

※この「陳式」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「陳式」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

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