陳彦祥と朝鮮・日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 21:26 UTC 版)
1406年(永楽4年/太宗6年)6月、爪哇国の使節の陳彦祥が朝鮮に到着したが、陳彦祥は全羅道沖で倭寇に襲撃され、孔雀や鸚鵡、胡椒や沈香や蘇木などの献上品を奪われたと述べた。同年9月、対馬の宗貞茂が朝鮮王朝に蘇木・胡椒・孔雀を献上したが、その際にこれらは南蛮船から掠取したものである旨を申告した。朝鮮では検討の結果、胡椒や孔雀などを献上品として受け入れるとともに、陳彦祥には新しい船を与えて帰国させることとした。陳彦祥は翌年の来朝を約束した。1412年(永楽10年/太宗12年)4月、陳彦祥(『朝鮮王朝実録』の記事では「亜列」という称号を付している)の孫の陳実崇が朝鮮を訪れた。実崇は陳彦祥が博多で記した文書を携えており、陳彦祥が前回の朝鮮からの帰途遭難して日本に流されたこと、日本国王の支援で本国に帰還したことなどを記し、陳彦祥が7月以来博多にあり、前回の謝恩のために孫を朝鮮に派遣すること、来年には自身も朝鮮を訪れるであろうことを記している。 なお、陳彦祥はこれ以前、1393年に暹羅解国(シャム・アユタヤ王朝)の使節(副使)として朝鮮に到来していた。この時陳彦祥は朝鮮回礼使裵厚とともに日本に向かったが倭寇に襲われて果たせなかったといい、シャムが日本との通交を期待していたという見解がある。
※この「陳彦祥と朝鮮・日本」の解説は、「亜烈進卿」の解説の一部です。
「陳彦祥と朝鮮・日本」を含む「亜烈進卿」の記事については、「亜烈進卿」の概要を参照ください。
- 陳彦祥と朝鮮・日本のページへのリンク