両軍の撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:18 UTC 版)
翔鶴は爆弾命中により着艦不能となっていたため、翔鶴攻撃隊と瑞鶴攻撃隊の双方が瑞鶴1隻に群がって着艦した。飛行甲板を常に着艦可能状態とするため、整備長は損傷の大きな機体の海中投棄を命令した。佐藤善一大尉が「私の機が最後です」と報告するとMO機動部隊司令部は「しまった、捨てすぎたか」と狼狽した。原少将は攻撃隊の被害を見て「これじゃ、とてもできんな」と呟いており、参謀達も攻撃機の激減(使用可能艦攻6を索敵に投入すると、艦爆9機のみが攻撃可能兵力となる)により追撃の意思を揺るがせており、目前で炎上する翔鶴と攻撃隊の惨状に、司令部は次の作戦を考慮する余裕を失っていた。下田中佐/飛行長は搭乗員達の疲労の深さに、第二次攻撃は中止すべきと判断していた。加えてMO機動部隊は搭乗員の救出に駆逐艦白露を分派、避退する翔鶴の護衛に重巡洋艦衣笠、古鷹、駆逐艦潮、夕暮を分派、瑞鶴に随伴する護衛艦は重巡洋艦妙高、羽黒と駆逐艦有明、時雨のみであり、その護衛艦も残燃料5-6割になっていた。原少将は高木武雄中将に「戦線整理」を意見具申、これを受けて高木中将は「攻撃隊は一一〇〇頃より逐次帰着、兵力整理中なるも、本日第二次攻撃の見込なし」と連合艦隊司令部に報告したあと、「第五航空戦飛行機収容、兵力整頓並に緊急補給の上改めて攻撃を再興せんとす」として北上を決定した。ツラギ基地からは横浜海軍航空隊の九七式飛行艇3機が魚雷を抱えて出撃したが、会敵しなかった。MO攻略部隊輸送船団は午後3時から午後4時にかけてB-17少数機の爆撃を受け、機銃の事故で津軽に負傷者5名が出た。 宇垣纏連合艦隊参謀長の陣中日誌『戦藻録』には、原少将が宇垣参謀長に直接語った心境として「七日の日は天運に恵まれず、海軍を罷めんと考えたり。翌八日漸く敵に損害を与え得たるも、我も亦傷つき、北上せよと云はるれば喜んで北上し、攻撃に行けと云はるれば行くと云ふ状況にて、戦果の拡大の事も頭にはありたるも、之を断行するの自信無かりし」と記述されている。『米海軍大学校研究』では、原少将について「意思が弱く、苦境になると盲目的になる。(中略)全力を尽くさない軍人としての意思の欠如は、日本軍の勝利に貢献しないだろう」と酷評している。 井上中将の第四艦隊司令部は米空母2隻撃沈確実との報告を受け、MO機動部隊に対し「総追撃」を下令すべく電文の作成にかかった。すると入れ違いでMO機動部隊より「われ北上す」の電報が届き、井上中将はMO機動部隊の判断を受け入れて正式に撤退を命じた。MO作戦は7月3日まで延期となった。山本五十六の連合艦隊司令部は井上中将が独断で撤退命令を出したと判断し、追撃を厳しく命令した。午後9時、第四艦隊司令部から「此の際極力残敵の殲滅に努むべし」と追撃命令が出たため空母瑞鶴は再び南下したが、アメリカ軍と会敵しなかった。 アメリカ軍攻撃隊の誤報により日本軍正規空母2隻を撃沈したと錯覚した第17任務部隊は勝利を確信した。航空隊の報告によれば、正規空母1隻撃沈、もう1隻に1000ポンド爆弾3発・魚雷5本命中沈没確実、零戦5、爆撃機3を撃墜、第17任務部隊直衛戦闘で零戦22、爆撃機11、雷撃機31を撃墜という大戦果である。ところが、レキシントンの攻撃隊が無傷の瑞鶴を目撃したため、計算外の正規空母1隻が存在することになり、フレッチャーは南太平洋方面部隊に偵察を依頼すると、珊瑚海から退避することを決定した。 この時点で空母ヨークタウンの飛行甲板修理は完了、レキシントンの火災も大部分が鎮火して傾斜復元に成功し、直衛戦闘機隊・艦爆隊の着艦・補給・発艦を開始するが、その時、レキシントンの艦内に充満していた気化ガソリンが発電機か電気のスパークによって引火・爆発が発生した。配電盤が故障して通信機能が麻痺、続いて応急指揮所が全滅、5インチ砲弾弾薬庫が誘爆、(12:59) にはSBD 9機、F4F 5機を発艦させたが、(13:19) の爆発で操舵室と機械室の放棄を余儀なくされた。断続的に爆発が発生し、レキシントンは航行不能となった。(17:10) 総員退去命令が出て乗組員は脱出を開始、(19:56) に駆逐艦フェルプスが雷撃処分した。なお、ヨークタウンでも燃料漏れは起きたがレキシントン級の格納庫が密閉式構造だったのに対し、ヨークタウン級は開放式の格納庫だったので気化した燃料が艦内に充満せず、難を逃れた。 9日、フレッチャー少将は戦場を離脱した。日本軍水上偵察機部隊は不時着機の捜索を行い、米陸軍航空隊のB-17が各地の日本軍基地を爆撃したが、大規模な戦闘には発展しなかった。
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