戦略的要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)
ギリシャの山がちな地形は防衛に有利であり、ロドピ、イピロス、ピンドスやオリンポスの高い山々は侵入者を止める役割を果たしていた。しかし、それは同時に、防御陣地の連携が悪くなることも意味していた。そして、ピンドス山脈に陣取った少数の部隊が、アルバニアからの侵入を止めることは可能ではあったが、それに対して、ギリシャ北東部への北側からの攻撃を撃退するのは困難であった。 3月のアテネでの会議では、イギリスはヴァーミオン山脈(Vermion Mountains)に沿ってアリャクモナス川下流へ北東に、アリャクモナス(Haliacmon)ラインでギリシャ軍と合同で防衛することになっていた。パパゴスはユーゴスラビアからの回答を待ち、ギリシャの国家安全のシンボル、メタクサスラインを防衛し、アルバニアからの撤退をしないつもりであった。パパゴスはそうすることによって有利な譲歩をイタリアから得られると主張した。戦略的に重要なテッサロニキの港はほとんど防御できず、イギリス軍の輸送は危険な状態が続いていたが、パパゴスはテッサロニキの地形を利用して防衛を行う準備をするつもりであった。 イギリス軍のディル卿はパパゴスの態度を「非協力的で敗北主義だ」と言い放ち、そして、パパゴスの計画ではギリシャ軍は大砲を使って形ばかりの抵抗しかできないという事実を無視しているとした。イギリスはギリシャが、ユーゴスラビアとは良い関係であるが、ブルガリアとはメタクサスラインを築かなければいけないほどの緊張関係からブルガリアに対抗することが大事であるとして北西の国境を無防備にしたと考えていた。国境防衛の貧弱さに対する懸念、ストルマ川、ヴァルダル川方面からドイツ軍が進撃してくれば、それが崩壊するだろうという予想があるにも関わらず、イギリス軍は結局、ギリシャの作戦を認めた。3月4日、ディル卿はメタクサスラインでの防衛計画に同意、3月7日、イギリス内閣も承認した。 部隊の全体命令はパパゴスが行うこととなり、イギリス軍はギリシャ北東で遅滞戦術を行うこととなった。しかしイギリス軍のウィルソンは自軍がそれだけの広さを持つ防衛線を維持するには戦力が足りないと判断、部隊を動かさず、その代わりにアリャクモナスライン全体の内、ヴァルダル川の西40マイル地点で防衛線を張った。この場所を防衛することにより、アルバニアでギリシャ第1軍との接触が保て、なおかつギリシャ中部へのドイツ軍の侵入を阻むことが可能であった。準備期間がまだ必要とされる今、これは小さな戦力で対抗できるという長所が存在した。しかし、それはギリシャ北部をあきらめることであり、このような政治的配慮はギリシャ人には受け入れがたいものであった。さらに防衛地点の西側にはユーゴスラビアのビトラを通過してドイツ軍が侵入する可能性があった。また、ユーゴスラビア軍の早期崩壊とヴァーミオン南部へのドイツ軍の進撃については考えられていなかった。 ドイツ軍の戦略はフランス侵攻で成功した電撃戦であり、ユーゴスラビア侵攻で効果を確かめ、空軍と装甲部隊の連携で迅速な進撃を行う予定であった。テッサロニキを速やかに占領した後は、アテネとピレウス港に向かうことになっており、さらにピレウスとコリントス地峡を制圧することにより、イギリス、ギリシャ両軍の撤退、避難を困難にする予定であった。
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