ユーゴスラビア侵攻
ユーゴスラビア侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 16:00 UTC 版)
「バルカン戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「ユーゴスラビア侵攻」の解説
詳細は「ユーゴスラビア侵攻」を参照 バルバロッサ作戦を控えていたドイツはイタリアのバルカン政策を容認しつつ、自らは外交的圧力によるバルカン支配を進めていった。しかしユーゴスラビアが一度は枢軸国入りを果たしたものの、親英的であった軍のクーデターにより親独政権が打倒され、同盟を破棄してしまう。バルカンの不安定化により、遠征の際に後方を脅かされかねない状況下に追い込まれたドイツは、バルバロッサ作戦を延期してバルカンへ軍事介入を行う事を決断する。その際、セルビア主導の国家運営に反発していたカトリック教徒の多いクロアチアが枢軸国側に寝返っている。 ユーゴスラビアはソ連に支援を求めたが拒否され、首都ベオグラードがドイツ空軍の爆撃を受け、14日には降伏した。以後、山岳部でチトーがゲリラ戦を挑み対独抵抗を継続した。 占領後の統治はクロアチア主導で行われ、秘密警察を設置、反政府セルビア人を弾圧した。これは、20世紀末のユーゴスラビア紛争でセルビアのクロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナでの「民族浄化」の名を借りた民族虐殺の遠因となった。
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