ユーゴスラビア軍の防御体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:35 UTC 版)
「ユーゴスラビア侵攻」の記事における「ユーゴスラビア軍の防御体制」の解説
第一次世界大戦の後に形成されたユーゴスラビア王国軍は、その当時の時代遅れになりきった武器や機材が依然として配備されていた。大砲は老朽化し、馬によって運ばれた。対戦車・対空用兵器は著しく不足しており、自動火器は十分な数が歩兵に対して供給されなかった。自動車化された部隊は一切無く、二個戦車大隊があるだけでその装備も110両のルノー FT-17 軽戦車のような旧式化した戦車を保有しているだけだった。ユーゴスラビア空軍も同様に弱体で、国産(主にIK-3)やドイツ製、イタリア製、フランス製、イギリス製の航空機を会わせて416機保有しており、新型の物はその約半数であった。 完全に動員されたならば、ユーゴスラビア陸軍は歩兵28個師団、騎兵3個師団、32個独立連隊を保有していた。しかしながらドイツ軍の侵攻が開始された時点では未だ編成途中であり、予定された守備位置に配置されていたのは僅か11個師団のみであった。動員が完了しなかったため、部隊の補充率はおよそ70%から90%であった。ドイツ軍の進入が開始された時点でユーゴスラビア陸軍の戦力は約120万人であった。 ユーゴスラビア陸軍は3つの軍集団と沿岸守備隊で組織化された。第3軍集団は第3軍と第5軍から成り、アルバニア国境の防御を担当した。第2軍集団は第1軍、第2軍、第6軍から成り、鉄門からドラーヴァ川にかけての地域の防御を担当した。主にクロアチア人によって組織された第1軍集団は第4軍と第7軍から成り、クロアチアに配置された。 不十分な装備や不完全な動員といった問題を越えて、ユーゴスラビア陸軍をひどく悩ませていたのは国内の政治におけるセルビア人とクロアチア人の分裂であった。最も悪い表現で言えば、ユーゴスラビアの防衛は、1941年の4月10日にクロアチア人の第4軍と第7軍が反乱を起こし、同日新しく成立したクロアチア人の政府がドイツ軍のザグレブ進駐を歓迎した時点ですっかり妥協してしまっていた。 事実上、内戦状態のユーゴスラビアに漬け込んだ侵攻が成功するのは当然の成り行きといえた。
※この「ユーゴスラビア軍の防御体制」の解説は、「ユーゴスラビア侵攻」の解説の一部です。
「ユーゴスラビア軍の防御体制」を含む「ユーゴスラビア侵攻」の記事については、「ユーゴスラビア侵攻」の概要を参照ください。
- ユーゴスラビア軍の防御体制のページへのリンク