ユーゴスラビア連邦時代とは? わかりやすく解説

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ユーゴスラビア連邦時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:43 UTC 版)

コソボの歴史」の記事における「ユーゴスラビア連邦時代」の解説

終戦後パルチザン指導者らが打ち立てた社会主義国家ユーゴスラビア連邦人民共和国構成国セルビア人民共和国内部に、アルバニア人多数占め自治州としてコソボ・メトヒヤ自治州設置された。この時、歴史上初めて、現在のコソボ境界線形作られた。州境は、アルバニア人多数となる地域自治州含まれるよう、慎重に選定された。しかし、「コソボ」という名称が指し示す範囲に関してセルビア人アルバニア人とでは認識異なっており、アルバニア人プレシェヴォ渓谷コソボ含まれるとする一方セルビア人スラヴ人多数派形成するマケドニアスコピエなども伝統的なコソボ領域含まれる考えていた。ヨシップ・ブロズ・ティトー自治州設置命じたが、自治州はじめのうち重要な権限与えられず、象徴的なものにとどまった自治州実効的な権限持ちはじめたのは、ユーゴスラビア国名ユーゴスラビア社会主義連邦共和国セルビア国名セルビア社会主義共和国へと改称され1953年以降であり、1960年代通じて次第自治州権限強化されていった1974年ユーゴスラビア憲法改正では、コソボ社会主義自治州政府強大な権限認められるようになったコソボには独自の大統領首相州議会置かれ、他のユーゴスラビア構成共和国同様にユーゴスラビア大統領評議会に1名の代表者送り事実上ユーゴスラビア構成国同等権限を持つようになったが、形式上依然セルビア社会主義共和国一部とされた。こうしたことから、コソボヴォイヴォディナ実質的に他の構成国同等とされ、セルビア本体から切り離された。 コソボ大きな人口比率占めアルバニア人セルビア人言語アルバニア語セルビア・クロアチア語は共に州の公用語とされた。アルバニア人は、独自にアルバニア語による学校大学を開くことも認められた。 セルビア人は、民族別にみたユーゴスラビア国民の中では最大比率持っていた反面セルビア8つある共和国自治州のうちの1つに過ぎないという状態がつくられセルビア人の間では自らの権利不当に抑制されているとの感情与えることとなった他方コソボマケドニアなどと並んでユーゴスラビアで最も開発の遅れ地域であり、スロベニアなどの先進地域との経済格差への不満があった。また、コソボ形式上依然としてセルビア一部とされ、他の連邦構成国と完全に同等ではなかったことに対しても、コソボアルバニア人の間では不満があった。 1970年代アルバニア人民族主義運動は、ユーゴスラビア枠組みの中で、コソボを完全にセルビアから切り離した独自の共和国とすることを求めるようになり、過激な者は完全独立主張するようになったティトー政権問題に対して迅速に対処したが、一時的な解決策しか取られなかった。それに加えてアルバニア人の高い出生率と、セルビア人コソボ域外への移住によって、コソボ民族別人口比率変化していった。20世紀後半の間、アルバニア人人口は3倍近くにまで増加しコソボでの人口比率65%程度から90%近くにまで上昇したのに対しセルビア人人口はほとんど横ばいから減少転じコソボでの人口比率30%程度から10%未満にまで低下した1981年3月のはじめ、アルバニア人学生らは、コソボユーゴスラビア構成共和国へと昇格させることを求めて抗議活動展開した抗議活動暴力的な暴動へと転化し、「6都市で2万人参加した」といわれている。暴動ユーゴスラビア当局によって厳しく鎮圧された。1980年代の間、民族間の緊張続きセルビア人ユーゴスラビア当局対す暴力的な襲撃が相次ぎセルビア人その他の少数民族コソボ域外への流出進んだユーゴスラビア指導者らは、民族差別暴力からの保護求めコソボセルビア人抗議黙殺した。1980年代コソボではセルビア人対すジェノサイド組織的な強姦が行われているとの主張なされたが、人権団体による調査ではこれらの嫌疑否定されセルビア人アルバニア人移住主因経済問題であったとしている: コソボではセルビア人アルバニア人双方が不満を持っており、双方とも脅威感じていた。しかし、セルビア人独立系ジャーナリスト人権団体は、より強く怒り煽り立てるような事実を見つけ出していったコソボの警察記録調査によると、1年間発生したセルビア人対すアルバニア人による強姦は1件のであった同様にセルビア人聖堂破壊個別的なものと結論され落書き教会所有の木の切り倒し憎悪犯罪思われるが、それらは明らかに組織性はなく、主張されるような殲滅目的ジェノサイドではない。 コソボでの強姦発生率は、セルビア本国よりも低かった1986年セルビア科学芸術アカデミーSANU)によってある文書作成され、これは後にセルビア科学芸術アカデミーの覚書SANU覚書)と呼ばれるようになった覚書は、セルビア政治家に対して現状危機であり、それによってどのような結果となるかを警告するものであった。これに含まれるある論文では、ユーゴスラビア非難し、(連邦内で貧し地域であったコソボ・メトヒヤ開発寄与している構成国セルビアのみであるとした。覚書によると、ユーゴスラビア民族分断直面しており、ユーゴスラビア経済分断は、やがて経済分離地域分離経て連邦緩やかな国家連合へと変えるものだとした。当時スロボダン・ミロシェヴィッチはこの文書非難したものの、後にセルビア権力拡大していく際には覚書指摘するセルビア人の不満を利用し政治目標として掲げていたと見られている。 ミロシェヴィッチ共産主義者同盟党員ひとりとして調査のためにコソボ派遣された。ミロシェヴィッチ初期の頃は、セルビア民族主義者とはつながり持っていなかった。調査の間、ミロシェヴィッチ不満に耳を傾けることに同意したミロシェヴィッチとの会合の間、建物の外には不満を口にするために集まったセルビア人群集警察衝突始まった建物の外での衝突の音を聞いたミロシェヴィッチは、激し衝突の続く表へ出て、「誰もこれ以上殴られることはない」と述べた。この事件夕方ニュースで報じられ無名であったミロシェヴィッチ一躍コソボ問題表の顔となった民族主義者支持得たミロシェヴィッチは、セルビア共産主義者同盟党内での政治クーデター決行したミロシェヴィッチセルビア共産主義者同盟支配権握りミロシェヴィッチ権力の座へと導いたコソボ問題前面掲げようになった1980年代の末には、危機叫び連邦権限強化主張する声が強まっていった。ミロシェヴィッチは、コソボおよびヴォイヴォディナ自治停止へと向かっていた。

※この「ユーゴスラビア連邦時代」の解説は、「コソボの歴史」の解説の一部です。
「ユーゴスラビア連邦時代」を含む「コソボの歴史」の記事については、「コソボの歴史」の概要を参照ください。

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