ユーゴスラビア連邦時代
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「コソボの歴史」の記事における「ユーゴスラビア連邦時代」の解説
終戦後、パルチザンの指導者らが打ち立てた社会主義国家・ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国・セルビア人民共和国の内部に、アルバニア人が多数を占める自治州としてコソボ・メトヒヤ自治州が設置された。この時、歴史上で初めて、現在のコソボの境界線が形作られた。州境は、アルバニア人が多数となる地域が自治州に含まれるよう、慎重に選定された。しかし、「コソボ」という名称が指し示す範囲に関してもセルビア人とアルバニア人とでは認識が異なっており、アルバニア人はプレシェヴォ渓谷はコソボに含まれるとする一方、セルビア人はスラヴ人が多数派を形成するマケドニアのスコピエなども伝統的なコソボの領域に含まれると考えていた。ヨシップ・ブロズ・ティトーは自治州の設置を命じたが、自治州ははじめのうちは重要な権限を与えられず、象徴的なものにとどまった。自治州が実効的な権限を持ちはじめたのは、ユーゴスラビアの国名がユーゴスラビア社会主義連邦共和国、セルビアの国名がセルビア社会主義共和国へと改称された1953年以降であり、1960年代を通じて次第に自治州の権限は強化されていった。 1974年のユーゴスラビアの憲法改正では、コソボ社会主義自治州の政府は強大な権限を認められるようになった。コソボには独自の大統領と首相、州議会が置かれ、他のユーゴスラビアの構成共和国と同様にユーゴスラビア大統領評議会に1名の代表者を送り、事実上、ユーゴスラビアの構成国と同等の権限を持つようになったが、形式上は依然、セルビア社会主義共和国の一部とされた。こうしたことから、コソボとヴォイヴォディナは実質的に他の構成国同等とされ、セルビア本体から切り離された。 コソボで大きな人口比率を占めるアルバニア人とセルビア人の言語、アルバニア語とセルビア・クロアチア語は共に州の公用語とされた。アルバニア人は、独自にアルバニア語による学校や大学を開くことも認められた。 セルビア人は、民族別にみたユーゴスラビアの国民の中では最大の比率を持っていた反面、セルビアは8つある共和国や自治州のうちの1つに過ぎないという状態がつくられ、セルビア人の間では自らの権利が不当に抑制されているとの感情を与えることとなった。他方、コソボはマケドニアなどと並んでユーゴスラビアで最も開発の遅れた地域であり、スロベニアなどの先進地域との経済格差への不満があった。また、コソボが形式上は依然としてセルビアの一部とされ、他の連邦構成国と完全に同等ではなかったことに対しても、コソボのアルバニア人の間では不満があった。 1970年代、アルバニア人の民族主義運動は、ユーゴスラビアの枠組みの中で、コソボを完全にセルビアから切り離した独自の共和国とすることを求めるようになり、過激な者は完全独立を主張するようになった。ティトー政権は問題に対して迅速に対処したが、一時的な解決策しか取られなかった。それに加えて、アルバニア人の高い出生率と、セルビア人のコソボ域外への移住によって、コソボの民族別の人口比率も変化していった。20世紀後半の間、アルバニア人の人口は3倍近くにまで増加し、コソボでの人口比率は65%程度から90%近くにまで上昇したのに対し、セルビア人の人口はほとんど横ばいから減少に転じ、コソボでの人口比率は30%程度から10%未満にまで低下した。 1981年3月のはじめ、アルバニア人の学生らは、コソボをユーゴスラビアの構成共和国へと昇格させることを求めて抗議活動を展開した。抗議活動は暴力的な暴動へと転化し、「6都市で2万人が参加した」といわれている。暴動はユーゴスラビア当局によって厳しく鎮圧された。1980年代の間、民族間の緊張は続き、セルビア人やユーゴスラビアの当局に対する暴力的な襲撃が相次ぎ、セルビア人やその他の少数民族のコソボ域外への流出が進んだ。ユーゴスラビアの指導者らは、民族差別や暴力からの保護を求めるコソボのセルビア人の抗議を黙殺した。1980年代、コソボではセルビア人に対するジェノサイドや組織的な強姦が行われているとの主張もなされたが、人権団体による調査ではこれらの嫌疑は否定され、セルビア人やアルバニア人の移住の主因は経済問題であったとしている: コソボではセルビア人、アルバニア人の双方が不満を持っており、双方とも脅威を感じていた。しかし、セルビア人の独立系ジャーナリストや人権団体は、より強く怒りを煽り立てるような事実を見つけ出していった。コソボの警察記録の調査によると、1年間に発生したセルビア人に対するアルバニア人による強姦は1件のみであった。同様に、セルビア人の聖堂の破壊は個別的なものと結論され、落書きや教会所有の木の切り倒しは憎悪犯罪と思われるが、それらは明らかに組織性はなく、主張されるような殲滅目的のジェノサイドではない。 コソボでの強姦発生率は、セルビア本国よりも低かった。 1986年、セルビア科学芸術アカデミー(SANU)によってある文書が作成され、これは後にセルビア科学芸術アカデミーの覚書(SANU覚書)と呼ばれるようになった。覚書は、セルビアの政治家に対して、現状が危機であり、それによってどのような結果となるかを警告するものであった。これに含まれるある論文では、ユーゴスラビアを非難し、(連邦内で貧しい地域であった)コソボ・メトヒヤの開発に寄与している構成国はセルビアのみであるとした。覚書によると、ユーゴスラビアは民族分断に直面しており、ユーゴスラビア経済の分断は、やがて経済の分離、地域の分離を経て、連邦を緩やかな国家連合へと変えるものだとした。当時、スロボダン・ミロシェヴィッチはこの文書を非難したものの、後にセルビアで権力を拡大していく際には覚書の指摘するセルビア人の不満を利用し、政治目標として掲げていたと見られている。 ミロシェヴィッチは共産主義者同盟の党員のひとりとして調査のためにコソボに派遣された。ミロシェヴィッチは初期の頃は、セルビア民族主義者とはつながりを持っていなかった。調査の間、ミロシェヴィッチは不満に耳を傾けることに同意した。ミロシェヴィッチとの会合の間、建物の外には不満を口にするために集まったセルビア人の群集と警察の衝突が始まった。建物の外での衝突の音を聞いたミロシェヴィッチは、激しい衝突の続く表へ出て、「誰もこれ以上殴られることはない」と述べた。この事件は夕方のニュースでも報じられ、無名であったミロシェヴィッチは一躍、コソボ問題の表の顔となった。 民族主義者の支持を得たミロシェヴィッチは、セルビア共産主義者同盟の党内での政治クーデターを決行した。ミロシェヴィッチはセルビア共産主義者同盟の支配権を握り、ミロシェヴィッチを権力の座へと導いたコソボ問題を前面に掲げるようになった。1980年代の末には、危機を叫び連邦の権限強化を主張する声が強まっていった。ミロシェヴィッチは、コソボおよびヴォイヴォディナの自治の停止へと向かっていた。
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