ユーゴスラヴィアでの影響力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:13 UTC 版)
「ジェリコ・ラジュナトヴィッチ」の記事における「ユーゴスラヴィアでの影響力拡大」の解説
1995年のデイトン合意以降、アルカンは再び私的な活動に戻り、「虎」は1996年に公的に解体された。同年、アルカンはユーゴスラビア・プルヴァ・リーガBのサッカークラブ、FKオビリッチを買収した。オビリッチは1996-97シーズンにユーゴスラビア・プルヴァ・リーガA昇格を優勝で決めると、翌1997-98シーズンにはレッドスター・ベオグラードとパルチザン・ベオグラードの二強以外ではユーゴスラビア崩壊以降唯一のリーグ優勝を果たした。アルカンはオビリッチ戦でゴールを決めた相手選手を脅迫し、ホームスタジアムを埋めた兵士は試合中に脅迫的な文面を叫び相手選手に銃を向けたとされている。ある選手はフォーフォーツーのインタビューでオビリッチ戦の際に誘拐されガレージに閉じ込められ出場できなかったと語った。これを受けて欧州サッカー連盟は1998年の夏にアルカンの裏社会との関係を理由にオビリッチの国際大会出場を禁止する可能性を示唆したため、アルカンは会長を辞任し妻のツェツァにその座を譲った。 アルカンは恐喝や詐欺、石油や貴金属の密輸などに関わったとして非難されている。アルカンはビジネスを拡大し、およそ400人が彼の元で活動に携わった。アルカンはカジノ、ディスコ、石油小売、パン屋、菓子屋、商店、レストラン、ジム、民間警備会社などを運営していた。 また、当時のユーゴスラヴィア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチと密かに盟約を結び、ミロシェヴィッチの下で動いていた。1998年の8月に、コソヴォでの民族間対立が高まっていたころ、アルカンは密かに西側諸国への接近を模索した。アフリカのケニアやタンザニアで米国大使館が爆破される事件が起きたとき、アルカンは米国の立場を支持する内容の手紙を当時の米国大統領ビル・クリントンに宛てて送っていた。手紙ではイスラム原理主義の危険性を説き、「米国の永遠の友好国・セルビアにおけるテロリズムを許すべきではない」と綴ったが、クリントンはこの手紙を無視し、返事は出さなかった。 アルカンは民族派のセルビア人の間では祖国防衛の英雄と考えられており、アルカンが1993年に設立したセルビア統一党は2000年の議会選挙では20万票の投票により14議席を獲得している。
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