ユーゴスラビア崩壊とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ユーゴスラビア崩壊の意味・解説 

ユーゴスラビア崩壊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:32 UTC 版)

ドゥブロヴニク」の記事における「ユーゴスラビア崩壊」の解説

それまで観光客賑わっていたドゥブロヴニクへの砲撃1991年から1992年にかけて続いた1991年ユーゴスラビアから相次いでクロアチアスロベニア独立宣言した年で、クロアチア社会主義共和国現在のクロアチア共和国へ名称が変わっている1970年代早い段階で、世界遺産登録されている旧市街地戦争による惨事から避けるため非武装化が行われたが1991年独立宣言後ユーゴスラビア人民軍残っていたセルビア・モンテネグロによって町は攻撃されている。 当時モンテネグロ政権セルビア人政府忠誠を誓うモミル・ブラトヴィッチ (Momir Bulatović) が担っており、ドゥブロヴニククロアチアに残ることは歴史的にモンテネグロ一部である為に容認出来ない宣言している。この宣言にも関わらずドゥブロヴニク市内多数占めるのはクロアチア人モンテネグロ人居住者少数であり、セルビア人人口の6%を占めるだけであった。この要求にはミロシェビッチ送り込んだ民族主義者大セルビア主義関係している。 1991年10月1日ドゥブロヴニクユーゴスラビア人民軍 (JNA) が攻撃開始しその後ドゥブロヴニク包囲が7ヶ月続いた12月6日には最大砲撃が行われ、19人が死亡し60人が負傷している。クロアチア赤十字社によればこの攻撃により114人が死亡したとされ、ドゥブロヴニク包囲では犠牲者著名な詩人であるミラン・ミリシッチ (Milan Milisić) が含まれていた。海外メディア旧市街損害人的犠牲大きく大袈裟なくらいに批判した紛争終結後砲撃による旧市街損害復旧進んだ修復ユネスコガイドライン忠実に元来の姿に戻されている。2005年にはもっとも被害受けた箇所復旧しており、紛争被災地示した地図城門近くで見ることが出来る。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷でのJNA大将将校起訴内容にはこの砲撃含まれている。

※この「ユーゴスラビア崩壊」の解説は、「ドゥブロヴニク」の解説の一部です。
「ユーゴスラビア崩壊」を含む「ドゥブロヴニク」の記事については、「ドゥブロヴニク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ユーゴスラビア崩壊」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ユーゴスラビア崩壊」の関連用語

ユーゴスラビア崩壊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ユーゴスラビア崩壊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドゥブロヴニク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS