ユーゴスラビア崩壊とコソボ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:43 UTC 版)
「コソボの歴史」の記事における「ユーゴスラビア崩壊とコソボ」の解説
詳細は「ユーゴスラビア崩壊」を参照 1980年代のコソボでは、民族間の関係は悪化の一途をたどった。特に、コソボでは少数派となるセルビア人に対しては、多数派のアルバニア人住民やアルバニア人主導の政府による差別的な待遇が取られていた。ミロシェヴィッチは、このセルビア人らの不満を自身の権力固めのために利用した。1987年、セルビア大統領イヴァン・スタンボリッチ(Ivan Stambolić)は、「セルビア人の苛立ちを沈静化するために」ミロシェヴィッチをコソボに送った。このコソボ訪問でミロシェヴィッチは、アルバニア人との会合を中断し、プリシュティナ郊外で抗議運動をするセルビア人らに合流した。セルビア人の抗議者らは警官によって警棒で押し戻されていたが、ミロシェヴィッチは彼らに対して「誰もお前たちを殴ることは許されない」と述べた。この事件は後に、ミロシェヴィッチの権力掌握への大きな転換点とみなされるようになった。 1989年6月28日、コソボの戦いの600周年を記念し、コソヴォ・ポリェ / フシェ・コソヴァのガジメスタン(Gazimestan)に集まる10万人のセルビア人を前にして行われたミロシェヴィッチの演説は、彼の権力掌握に大きく寄与するものとなった。これ、ミロシェヴィッチはセルビアでの地位を確固たるものにする上で重要な出来事であったと考えられている。 1989年、ミロシェヴィッチは策動や脅迫を用い、セルビアの枠内でのコソボの自治権を大幅に縮小した。その直後からイブラヒム・ルゴヴァを中心とするアルバニア人は、コソボの独立を目指した非暴力の分離運動を展開し、大規模な不服従運動をはじめた。アルバニア人らは国家機関や選挙をボイコットし、独自にアルバニア人の学校や政治機関を組織しはじめた。1990年7月2日、アルバニア人によって独自に設立された非公式の議会がコソボ共和国の独立を宣言したが、ユーゴスラビア政府や外国の政府からの承認は得られなかった。1992年、この議会は独自に住民投票を実施し、投票率80%、うち98%は独立に賛成との結果を出した(コソボ共和国も参照)。
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