セルビア人とクロアチア人の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 03:20 UTC 版)
「ダルマチア王国」の記事における「セルビア人とクロアチア人の分裂」の解説
ヴーク・カラジッチ、イリア・ガラシャニン、ヨヴァン・スボティッチらがダルマチアをセルビアの土地として記し、1878年のベルリン会議でセルビア王国が独立国として認められた後、ダルマチアにおけるクロアチア人とセルビア人の関心の差が明らかになった。セルビア人はダルマチアを「セルビアの土地」として継続的に言及し始め、ダルマチア出身の多数のクロアチア人兵士の関与と犠牲、そしてボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチア=スラヴォニア王国の統一の要求を含んだオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ共同統治国占領でクロアチア人の熱意が高まると、クロアチア人とセルビア人の間の軋轢は激しくなった。1879年、ブコヴィツァのセルビア人たちは、人民党のミホヴィル・クライチの代わりに自治党のイタリア人候補者に投票し、人民党はこれをブコヴィツァの裏切りと呼んだ。その後まもなく、クロアチア人とセルビア人で別々の政党が設立されたが、クロアチア人はダルマチア国会で過半数を占めて続けていた。 1881年11月、コトル湾の後背地に住んでいたセルビア人とモンテネグロ人は帝国国民の義務である強制徴兵に不満を抱いて反乱を起こしたが、スティエパン・ヨヴァノヴィッチ陸軍元帥率いるオーストリア陸軍によって1882年5月に鎮圧された。 1891年、フラーノ・スピロはセルビア人によるダルマチアへの主張に反対し、ダルマチアとクロアチア=スラヴォニア王国の統一を支持して「赤いクロアチア(クロアチア語: Crvena Hrvatska)」の出版を始めた。1893年、ドゥブロヴニクにイヴァン・グンドゥリッチの記念碑が建てられた際には、クロアチア人とセルビア人の間に大きな緊張が走った。これは、多くのクロアチアの高官、政治家、芸術家らがドゥブロヴニクを訪れたことで、地元のセルビア人やメド・プチッチのようにセルビアの思想を支持する一部のドゥブロヴニク市民の人々の思いに反して、除幕式がクロアチア国家主義を主張する場に変わってしまったからであった。 いわゆる「新方向性政策」の肯定により、セルビア人とクロアチア人の関係は改善し始め、これは1907年2月25日のザダル解決への署名によって確認された。政治家のロヴロ・モンティ博士は「セルビア人と共にあれば多くのことができる、彼らなくしては僅かなことだけが、そして彼らといがみあえば何もできない」と述べている。1905年、初めてダルマチア出身のニコラ・ナルデリ(人民党)が総督に任命され、1912年にはイタリア語が官公庁と裁判所で廃止された。ただし、オーストリア政府は公式の通信でイタリア語とドイツ語を使用し続けていた。
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