ユーゴスラビア代表の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:29 UTC 版)
「サッカーユーゴスラビア代表」の記事における「ユーゴスラビア代表の崩壊」の解説
多くの栄光を手にしたサッカーユーゴスラビア代表であったが、国家としてのユーゴスラビアが崩壊すると同時に代表も崩壊してしまった。 ユーゴスラビア代表最後の代表監督はイビチャ・オシムであったが、彼が代表監督を引き受けた1986年頃には、ユーゴスラビアと言う国は末期的状況を呈していたといわれている。1980年にユーゴスラビア統一の象徴であった、ヨシップ・ブロズ・チトーが死去すると、それまで抑えられていた、各共和国のナショナリズムの勃興が始まった。セルビアではセルビア民族主義を掲げるスロボダン・ミロシェヴィッチが台頭。経済的に豊かなスロベニアでは「経済主権」を掲げて、ユーゴスラビアからの脱退を主張し始め、セルビア民族主義に反発したクロアチアでも、反ユーゴ、反セルビアの動きが加速していった。 それはサッカーでも同じだった。1980年代末になると、各共和国の民族主義者からは「自分たちの共和国は祖国であるが、ユーゴスラビアは祖国ではない」と言う考え方の下、自らの共和国出身の選手に対して、ユーゴスラビア代表に加わらないように政治的、物理的圧力がかけられるようになった。又ユーゴスラビア国内で行われる国際試合では、スタンドの観客が、ホームチーム、ユーゴスラビア代表ではなく、アウェイのチームを応援することが常態化していた。1988年にベオグラードで、ユーゴスラビア代表と対戦したフランス代表のミシェル・プラティニはなぜユーゴスラビアの観客がフランスを応援するのか理解できなかったと言う。 代表だけでなく国内リーグも民族対立の捌け口として混沌とした様相を呈し、1990年5月13日にザグレブのスタディオン・マクシミールで行われた、国内リーグディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦はさながら民族間の代理戦争を思わせる事態へ陥ってしまう。クロアチアを代表するクラブとセルビアを代表するクラブとのビッグマッチは、開始前からサポーター同士の小競り合いが絶えず、とうとうザグレブの一部サポーターがスタンドに火を放つ暴挙を行い、そこから暴動が巻き起こってしまった。狂乱の最中、ザグレブの選手のズボニミール・ボバンがザグレブサポーターを抑圧する警官(セルビア人であるという説と、そうではないムスリムだという説がある)にとび蹴りを食らわすなどがあり、大きな問題となった。(スタディオン・マクシミール暴動。なお、試合は開催されることなく3-0でレッドスターの勝利) スタディオン・マクシミール暴動から2週間後に同スタジアムで行われた1990 FIFAワールドカップに向けての最後のテストマッチにおいても、代表に向けて「自国民」からの容赦ないブーイングが浴びせられる。ユーゴ代表はこの厳しい現実に直面しても怯むことなく奮戦するが、この対オランダ戦は0-2で敗北。本戦に向けて様々な面での不安を残す結果となる。 こうした状況の中では代表チームを編成すること自体が困難になってきていた。各共和国のメディアは他の共和国の選手(特にセルビア)の選手を指して、「なぜあいつを使うのか?それよりも自分たちの共和国の選手の方が素晴らしい」と書きたてて、代表、監督を批判した。セルビア系のメディアでは自国内の対立を持ち込むものまでいた。 時にはこうしたメディアがベンチの横にまで入ってきて、文句を吐きかけられたとオシムは証言する。中には文句をまくし立てる横でドラガン・ストイコビッチ(セルビア人)がゴールを決めると、オシムに向かってメディアの関係者が「結果が間違っている」と叫び、翌日には「このゴールは明らかなオフサイド」と書きたてる記者もいたほどに、凄まじい環境であった。宿舎に極右関係者(レッドスター・ベオグラードのファンとして有名だった)が出入りし、オシムを見つけると微笑みかける、といったことすら稀事ではなかった。 しかし、オシムは毅然とした態度で、時には記者たちをあしらい、あるときは怒りを爆発させて個人への取材を禁止するなどし、自らが選んだ選手たちの結束を守り(ストイコビッチが述べるように、彼らの友情はその後も壊れることはなく今も続いている)、ユーゴスラビア代表はワールドカップ予選を通過。本大会に進出する。そしてこれが、ユーゴスラビア代表最後の輝きであった。
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