ユーゴスラビアの抵抗運動
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「ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「ユーゴスラビアの抵抗運動」の解説
詳細は「パルチザン (ユーゴスラビア)」および「チェトニク」を参照 初期の頃より、枢軸国に対するユーゴスラビアの抵抗運動には2つの派閥があった。ひとつはパルティザンであり、これは共産主義者主導による民族を超えた全ユーゴスラビアの団結(兄弟愛と統一)を掲げ、共和制を志向する左翼集団であった。もうひとつはチェトニクであり、これは保守派・王党派による民族主義者の集団で、ほぼセルビア人のみを支持母体とした。当初はチェトニクが西側連合国から承認され、パルティザンはソビエト連邦の支持を受けた。パルティザンが連合国全体から承認され支援を受けるようになったのは、チェトニクが枢軸国と協力関係にあることが広く知られるようになった1943年以降のことであった。 パルティザン(正式名称はユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊、NOV i POJ)はヨシップ・ブロズ・ティトーを指導者とし、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリアおよび傀儡政権に対する闘争の中心的役割を果たした。スペイン内戦の経験のある元義勇兵を引き入れ、またスロベニアではTIGR(英語版)のメンバーを引き入れて兵員の訓練に充てた。また社会主義思想は民族を超えた支持を集める役割を果たし、闘争を通じて支持を拡大し、連合国およびロンドンのユーゴスラビア王国亡命政府の承認を得るに至った。パルティザンはヨーロッパにおける第二次世界大戦で最大の抵抗運動へと成長し、80万人の兵員、4軍を擁するまでになった。パルティザンは国内外の全ての敵対勢力を排除し終戦後のユーゴスラビア民主連邦の正規軍(英語版)となった。 マケドニアおよびスロベニアのパルティザンの活動はユーゴスラビア人民解放戦争の一部に含まれるものの、それぞれ地元の民族に根ざしており中央からの独立性が高く、マケドニア人民解放軍(英語版)、スロベニア・パルティザン部隊(英語版)として独自の組織を有した。1944年、マケドニアとセルビアのパルティザン司令官はセルビア南部で連絡を取り、マケドニアとセルビアの指揮系統を統一、これによってマケドニアのパルティザンはヨシップ・ブロズ・ティトーの指揮下に組み込まれる。スロベニアのパルティザンもまた、1944年にティトーの指揮下へと組み込まれた。マケドニア共産党(英語版)の自治主義者らは、戦時中はマケドニア・パルティザンの中心的役割を担ったが、1945年の第2次マケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)において完全に排除された。 王党派のチェトニク(正式名称は父祖の地のユーゴスラビア軍、JVUO)は、ドラジャ・ミハイロヴィッチを指導者とし、枢軸国に敗れて散り散りになったユーゴスラビア王国軍の残党を中心に構成され、セルビア人の支持に全面的に依存する組織であった。枢軸国によるユーゴスラビア侵攻後、1941年4月17日にユーゴスラビア王国が降伏した直後に結成された。チェトニクは結成当初、ロンドンのユーゴスラビア王国亡命政府および連合国から、抵抗運動として唯一承認された勢力であった。パルティザンとチェトニクは初期には何度か協力を試みたものの、こうした試みはすぐに失敗に終わった。パルティザンとの交渉が決裂すると、ミハイロヴィッチはパルティザンへの敵対姿勢を明確にし、パルティザンを主敵とみなすようになった。ミハイロヴィッチによると、これは、ドイツ軍が報復としてセルビア人市民を無差別処刑するのを防ぐための措置であった。しかしその後もパルティザンは活動を止めることはなく、チェトニクは1941年11月にパルティザンを攻撃した。この頃からチェトニクはドイツやイタリアと協力し、補給を受けることが多くなった。ミハイロヴィッチのもとへ派遣されたイギリスの連絡員は、ウジツェ共和国の瓦解(第1次反パルチザン攻勢(英語版))の後、ロンドンに対して、ミハイロヴィッチへの物資支援を中止するよう求めたが、イギリスはその後もチェトニクへの支援を続けた。
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