ユーゴスラビアが解体されるまでとは? わかりやすく解説

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ユーゴスラビアが解体されるまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 07:30 UTC 版)

ユーゴスラビア紛争」の記事における「ユーゴスラビアが解体されるまで」の解説

詳細は「ユーゴスラビア崩壊英語版)」を参照 1990年近くになると、ソ連国内においてはミハイル・ゴルバチョフ指導による民主化進みベルリンの壁崩壊ルーマニアにおけるニコラエ・チャウシェスク処刑ルーマニア革命)に代表される東欧民主化東側世界民主化広がり社会主義政権が相次ぎ崩壊したユーゴにおいてもユーゴスラビア共産党による一党独裁廃止して自由選挙を行うことを決定しユーゴ構成する各国ではチトー時代体制からの脱却開始するまた、各国ではスロボダン・ミロシェヴィッチセルビア)やフラニョ・トゥジマンクロアチア)に代表されるような民族主義者政権握り始めていた。ユーゴ中心であるセルビア共和国では大セルビア主義掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領となり、アルバニア住民の多いコソボ社会主義自治州併合強行しようとすると、コソボ反発して1990年7月独立宣言。これをきっかけユーゴスラビア国内内戦状態となった1991年6月文化的宗教的に西欧中欧に近いスロベニア10日間の戦闘により短期間独立達成し十日間戦争)、次いでマケドニア独立。ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチア激し戦争経て独立したクロアチア紛争)。ボスニア・ヘルツェゴビナ1992年独立したが、国内セルビア人ボスニアからの独立を目指して戦争繰り返したボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)。セルビア国内でもコソボ自治州独立目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となったコソボ紛争)。その後コソボ地域アルバニア住民マケドニア国内難民として大量に押し寄せてたことから、マケドニアにも飛び火したマケドニア紛争)。 スロベニアマケドニア比較スムーズに独立達成した一方でボスニア・ヘルツェゴビナクロアチア東部コソボでは、スレブレニツァの虐殺のような凄惨なジェノサイドレイプ追放による民族浄化起きたこうした戦争犯罪一部は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷裁かれた。 ユーゴスラビア建国時から各民族入り混じって暮らし第二次世界大戦後平和裏移住民族間の結婚進んだこうした状況下で、セルビア人クロアチア人などが同じ民族集めた民族国家形成しようとすれば、「虐殺同化あるいは住民大規模な強制移住なしには不可能である」にも関わらず、それを実行しようしたため上記のような深刻な人道的危機もたらされた。また、ユーゴスラビア国土防衛ドクトリンとしてトータル・ナショナル・ディフェンス採用しており、平時から武器類自主管理組織によって管理されていたことや、市民がそれらの扱い知っていたことが紛争激化要因一つとなった紛争各国勢力間の軍事的勝敗嵐作戦)や交渉合意のほか、北大西洋条約機構NATO)や国際連合介入により収束した

※この「ユーゴスラビアが解体されるまで」の解説は、「ユーゴスラビア紛争」の解説の一部です。
「ユーゴスラビアが解体されるまで」を含む「ユーゴスラビア紛争」の記事については、「ユーゴスラビア紛争」の概要を参照ください。

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