社会主義政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 07:08 UTC 版)
メキシコ亡命後、カストロらはその地でアルゼンチン人医師のチェ・ゲバラ(Ernesto "Che" Guevara Lynch)と出会い、ゲリラ戦訓練を受けた後、1956年12月にヨット「グランマ」号にのってキューバに上陸した。その際、政府軍の攻撃でカストロらは壊滅的打撃を受けたが、シエラ・マエストラ山脈を拠点として政府軍へ2年余りのゲリラ闘争を行った末、1959年1月1日にバティスタを国外逃亡に追い込んだ。これにより革命政権が誕生したが、その際に革命政権は、発足後数週間の内に軍事法廷で旧バティスタ政権関係者を裁き、およそ550人を処刑した。その後、2月半ばにカストロが首相職に就任すると、革命政権は一連の農地改革法を実施し、砂糖よりも食料になる作物の生産に力を入れ始めた。また、精糖業などでアメリカ資本に握られていた土地と産業を国有化し、農業の集団化を実施するなど社会主義国家の建設を推進した。この過程で、中・上流階級の多数の人々がアメリカなどへ亡命した。 バティスタ政権という傀儡政権を失った米国は、革命政権とは別の政権樹立に向けた動きを見せていたが、59年5月から革命政権が実施した徹底的な農地改革に直面したことで、革命政権を敵視するにいたった。おりからの米ソ対立の影響を受け、米国に敵視された革命政権はソ連に接近し、1960年にソ連と正式な外交関係を結んだ。米国政府との対立が決定的になると、キューバ政府は国内からの米国企業の排除に努め、米国資本の石油精製会社、製糖会社、電話会社、銀行・商業・工業の大企業を国有化した。1961年、米国政府はキューバとの外交関係を断絶し、少量ながら続けていたキューバ産砂糖の輸入も全面禁止した。そして、アメリカの支援と訓練を受けた亡命キューバ人の反革命軍をキューバ南部のピッグス湾に侵攻させたが、反革命軍は撃退されて目標を果たせなかった(ピッグス湾事件)。 1962年2月3日に米国のケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。同年、キューバにおけるソ連のミサイル基地の建設とミサイルの搬入が明らかとなり、核戦争の危機となったが米ソの妥協で危機を回避する事態が起きた(キューバ危機)。これにより、アメリカとキューバの関係は一挙に悪化したが、1965年にアメリカとキューバは、キューバ人のアメリカ移住を認めることで合意し、1973年までに26万人以上がキューバを去った。
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